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素描
【SM 官能小説】

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素描-1

ここを、なぜ訪れたのか、おそらくあなたは誰にも説明することができない。なぜなら、別れた妻から届いた一枚の葉書があなたをここに導いたのだから……。

まるで本来の自分を自らの中に意識することを強いられるように、あなたはその建物の前で渇いた秋の白日夢に晒されていた。
繁った樹木に囲まれた古い邸宅は、都心の喧騒を拒むように堅い殻に閉ざされ、沈黙に浸るようにひっそりと建っていた。門に嵌めこまれた〈南条 怜〉美術館という小さな真鍮の文字に気がつくものはおそらく誰もいない。刻まれた名前が、すでに世間から忘れられたものであることを色褪せすぎた文字が語っているような気がした。

〈南条 怜(れい)〉……日本画界で彗星のようにあらわれた鬼才で、当時は一世を風靡した青年画家だったが、忽然と画壇から姿を消し、その後、彼の名前が人前で囁かれることはなく亡くなったと聞いている。そもそも彼はこれまで世間にその風貌を一切、晒すことはなく、いったい彼がどんな人物なのか知る者はいないと言われていた。ただ、ある美術評論家が生前の南条画伯に一度だけ会ったことがあり、彼が相手を魅了させるほどの顔立ちと端麗な美貌をもった青年であったことを美術雑誌に書き綴っていた記憶があった。ただ、評論家は、その文章の中で南条が性的な不具者であり(実際、彼は自らの性器をナイフで切り落そうとした事件を起こしていた)、倒錯的な物憂い不安が彼の作品に少なからず現われていることも書き加えていた。


あなたは、いくつかの彼の作品を以前から知っていた。それはほとんどが風景画であり、少ない色彩を自在に操った精緻で透明な画風は、見るものに新たな美を予感させ、その美しさで絵を見る者を問いつめ、驚愕の酩酊に浸らせた。彼の絵は単なる風景というよりも、どこか内省的であり、自らの官能を秘めた心象を暗喩として風景に写し込み、不安と欲望、そして美に対する狂気が無機質で透明な画面に底知れなく込められていたように感じられた。
ただし、彼はこれまで風景画しか残していない。人物画はおそらくこの世には存在していないとされてきた。その彼がたとえデッサンであろうと、死の直前にひとりの女性の人物画を描こうとしていたのだ。その女性こそが、あなたが十年前に離婚した妻、燿子だった。

五十歳のあなたの誕生日に届いた一枚の葉書……南条画伯のデッサンだけの展覧会の案内だった。差出人は燿子だった。彼女はあなたより三歳年下だから、今年、四十七歳になる。葉書の懐かしい文字は燿子が書いたことに違いなかったが、その葉書をあなたに送った理由は、彼女が〈南条 怜〉という青年画家のモデルとして描かれた事実を伝える以上のものであることに、あなたは薄らと気がついていた。
その葉書には《ある意図》が込められ、あなたは燿子という過去の女から伸びてくる糸に絡められるように、南条画伯と燿子の関係に引き寄せられたと言ってもよかった。

あなたは、妻であった燿子の存在の意味を、そして、かつて自分が彼女の夫であった意味を、底の見えない遠い沈黙の沼の底からすくいあげるには、あまりに彼女に対する想いも、欲望も枯渇し、ただ暗鬱な夢想にのみ浸っているにすぎなかった。すでにあなたにとって遠い存在としての燿子に対する夢想は脳裏の中を滑るように転がり、虚ろに停滞し、躊躇い、溶けていく。彼女に対するとらえどころのない未練という夢想が、いまでも色褪せた性愛と言えるものであるとしても、あなたはいったいどんな欲望を彼女にいだくことができるというのか……あなたは自分の懐疑心を敏感に感じ取っていた。

戦前は伯爵家の邸宅であったという建物は、アールデコ風のデザインが施され、玄関を入ると、吹き抜けの広間になっており、至るところにレトロで洒落た幾何学文様の装飾された扉やステンドグラスが見られ、アンティークな調度品がさりげなく置かれていた。
燿子から送られてきた展覧会は七年前に開かれたはずだったが、なぜかその展覧会が今もまだこの邸宅で継続されていることをあなたは奇妙に感じた。


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