けむくじゃら-3
その日、他の人間が出す音は慣れているはずなのに足の裏に張り付いた砂のように不快感を抱えて耳の中に入ってきた。あの人間のものとはまるで違う。鳴き声はごく少なく短かったがずっと良かった。
また聞きたい……
初めて抱いた願いだった。けれど、願いながら叶わないとも思っていた。
けむくじゃらは自分の毛の塊と同じように体を丸めた。嫌な音が少しでも体に入らないように、心地よい音が体の中から出ていかないようにと。そうしてじっとしていると、いつしか人間の音と姿がなくなった。辺りは夜が連れてくる闇が少しずつ集まっていて、重い音と共に出入り口の扉が閉じられた。
音がない分、暗くなってからの静寂は好きだった。目を閉じて、また光がやってくるのを待つ。
ふと、何かが薄い闇の中を進んできた。
「やぁ」
心地よい鳴き声が鼓膜を優しく撫でた。
目を開けるとそこにはあの人間が立っていた。胸の中で何かが飛び起きて、けむくじゃらも同時に起きあがった。毛を引きずりながら、格子へ、人間へ近づく。
「朝はすまなかった。君がしゃべるなんて思いもしなかったから、びっくりしたんだ」
人間は頭を掻いた。そして、懐から四角くて薄いものを出して広げる。中には見たことのないものがたくさんあった。それが何かかはけむくじゃらにはわからない。
「これは絵本。小さな子供に読み聞かせるものだ。少しでも言葉を覚えられたらと思って……」
人間は本を小脇に抱えると、格子の間の床に小さな石を置いて指先でとんと叩いた。すると、石が昼間とは違う小さな光を蓄えて手元を照らした。突然の出来事に驚いたけむくじゃらは小動物のような速さで檻の端へと跳んでいった。
人間は石の光を頼りに本を見ながら優しい鳴き声をゆっくりと聞かせてくれた。少しすると絵本というものをぺらりとめくる。
けむくじゃらは目を閉じた。心地よい声を一つだって取りこぼすまいと噛み締めて体に蓄えた。
その日から、人間は日が暮れた頃にもやってくるようになった。いつも決まって本を読み聞かせてくれた。内容はよくわからない。それでもけむくじゃらは良かった。声を音を一つ一つを集めるのが楽しくて仕方がなかった。そして、その人間と過ごす穏やかな時間が待ち遠しくて、共に時を過ごすと別れが惜しいと思うようになっていった。
季節が一つ進む頃になると、けむくじゃらの中で変化が起きた。蓄えてきた音が見えない器からどっと溢れ出して言葉へと変わったのだ。それから間もなく、たどたどしくはあったが人間が言った言葉を真似ることがそう難しいことではなくなった。
人間はたくさんの絵が描かれた本を持って来るようになり、絵を指差しながら物の名前を教えてくれた。けむくじゃらはなるべく同じ音を真似た。うまく言えると人間は口の両端を上げて『笑顔』になった。そうするとけむくじゃらは胸の当たりがくすぐったくて温かくて、それが不思議と心地が良くて、また見たいと思うのだ。
ふと、人間の指先が本を離れた。そして、おもむろに指し示したのは人間自身だった。
『アル』
それが、その人間の名前というものだった。
では、けむくじゃらの名前は?
答えは『わからない』
けむくじゃらは、自分が『けむくじゃら』以外の呼ばれ方を知らなかった。