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毛玉と弟子
【ファンタジー その他小説】

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けむくじゃら-5

 日が暮れて大勢の人間達がいなくなった後、扉から入ってきたのは、首を縄に繋がれた、アルの姿によく似た人間だった。アルだと確信が掴めなかったのは、人間の顔が赤黒く腫れ上がっていたからだ。額も頬も鋭い何かで無惨に傷つけられ、左目は黒く固まったもので瞼がすっかり張り付いていた。人間は重たい足取りで時々倒れそうになりながら檻までたどり着いた。
 そう長い距離ではないのに苦しそうに肩で息をしている。
 アルのような人間は素手で腐った餌を集め、袋に入れ始めた。その手もまた数本の指があらぬ方向に曲がって動かす度に止まっては震えていた。
「アル」
 けむくじゃらは人間に近づき、小さな声で話しかけた。
 すると、人間が手を止め、傷つき腫れ上がった顔を上げた。腫れているのにからからに乾いた唇が震える。
「しゃべるな……ダメ、だ……」
 わずかに開いた右目から、雫が一つ、落ちた。
 アルだ──
 けむくじゃらは息をのみこむ。同時に、腹のずっと深い場所から熱いものが湧き出しはじめた。それは初めての経験だったが、そんなことを気にする余裕はなかった。熱いものがとぐろをまいてけむくじゃらの心に巻きつき、優しいふりをして囁く。しかし、従ってはいけないとけむくじゃらは知っている。だから、ぐっと歯を食いしばり、熱いものに主導権を渡すまいとこらえるしかなかった。
 不意に、縄が引かれた。アルは抵抗する力もなくそのまま後ろに倒れ、呻き声を漏らして体を丸める。
「この盗っ人め! 何をぐずぐずしている! 命を取らないでやった恩を少しでも返せっ!」
 そう吠えたのは、横に大きい姿の男だった。けむくじゃらでも知っている。このはぐるまの支配人だ。支配人は大きな体を揺すりながらアルに近づくと散々痛めつけられた体に唾を吐きかけた。
「さっさと片づけろ! 臭うのはけむくじゃらだけで十分だ。やれ!」
 支配人の怒号に、アルはのろのろと体を起こそうとしたが、突然、糸が切れたように倒れて動かなくなった。
 意に背いたと更に支配人が激昂する。腰から黒い棒を出すと、何度も何度もアルを叩いた。それでもアルは動かない。額や頬の塞がったばかりの傷が再び口を開ける。振り上げた棒から血飛沫が走り、檻の中まで飛ぶ。
 けむくじゃらは棒が飛ばした鮮血の点線を目で追った。ほんの一呼吸前までアルの体を流れていたものが暴力によって流れている。
 アルが傷つけられている。
 熱いものが囁く。
 もう我慢しなくてもいい。
 早く、早く、アルを楽に──

 ドンッと空気が震えた。
 棒を振り上げた手を止め、支配人が音の発生源を見た。
 黒い毛の塊が鉄の格子に体当たりをしていた。
 ははっ、と支配人は笑いを漏らす。どんなに猛獣が暴れようとも破壊できない特別な檻を大人しいけむくじゃらが壊せるはずがない。
 二度、三度、衝撃音が響くとみるみるうちに支配人の顔は引きつっていった。
 格子が歪み、徐々に幅が広がる。
 それが人が一人すり抜けられそうなほどになった瞬間、支配人の体は黒い衝撃によって部屋の端まで弾き飛ばされた。
 体をしたたかに打ちつけたが分厚い脂肪のクッションが幸いし、大きな怪我はなかった。状況を把握するため、すぐさま起き上がり衝撃の正体を確認する。
 格子が曲がり、既に機能を失った檻。そして、横たわるアルの傍らに、いた。新月が生み出す闇を纏った一塊の生き物が。
 今までの薄汚れた毛とはまるで違う。漆黒の毛はあらゆる光を飲み込みながらも艶やかで、風に撫でられる草原の波のように揺れる。
 支配人は息をするのも忘れ、ただひたすらけむくじゃらだった生き物を見ているしかなかった。
「アル、くるしい?」
 問いかけても返事はない。
 黒い生き物はゆっくりと身を屈め、アルに覆い被さった。






 


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