昭和十二年 夏 同時代人たちに-4
その日、僕がとうとう、「アン爺」のアトリエに侵入したのは、どのようなシチュエーションにおいてだったか、今となって思い出すことはできない。ともあれ、僕はひとりだったし、ドアを開けてみたら開いたのである。それは不思議な世界だった。いわば非現実の空間であった。絵筆を入れた桶がひっくり返っていて、絵具の匂いが鼻をついた。壁にも、床にも、無数のキャンバスが乱雑に散在していたが、高い天窓から斜めに入る光線は中央の画架に注がれていた。そこには、埃を防ぐためであろう、白い布がかけてあったが、好奇心から、ちょっとめくってみて仰天した。畳二帖もあるような大きなキャンバスには、白い裸婦が画面一杯に横たわり、その豊かな丘を滑り下ると、突如、刺々しい刺(いら)草(くさ)の茂みが盛り上がっていた。それは、白と黒、明と暗、美と醜、善と悪、静と動そして純潔と卑猥等あらゆる対立軸における表と裏である。それは見る者の意表を突き、混乱に陥れる。まして、初めてそれを見た僕は、驚きのあまり、慌てて退散した。禁じられた聖域で、見てはならぬものを見た僕は、急いでアトリエを出ると、後ろ手にそのドアを閉めた。僕の幼年時代は、その時、終わったのかもしれない。
九月が近づいていた。鎌倉でも、軽井沢でも、那須でも、あちこちで「また来年」とか、「では東京で」とか、しきりに空疎な慣用句が交される。そして夏は逝く。