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昭和十二年 夏 同時代人たちに
【純文学 その他小説】

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昭和十二年 夏 同時代人たちに-6

五月二十五日夜、日没とともに空襲警報が鳴りわたり、ほとんど同時に、空襲が始まった。それは、日本の警戒システムが既に機能していなかったことを示すであろう。三月の空襲とは違って、もう高射砲の花火は揚がらず、邀撃(ようげき)戦闘機も出動しなかった。要するに、日本側は無抵抗だった。合計数百機のB29は、無抵抗な帝都の上空を悠々と飛びながら、焼夷弾を投下した。それ程長い間ではない。せいぜい一時間か、一時間半であろう。用が済むと、編隊は、さっさと引き揚げていった。それを見て僕たちは、今度も無事だったかと胸を撫でおろした。
そのときである。僕は、一機のB29がどこからともなく、低空で近づい来るのを見た。次の瞬間、そのB29は「モロトフの花束」(多数の焼夷弾を広範囲に散乱させて殺傷効果を増加させる目的で、パラシュートで落下させた焼夷弾を落下中に自動的にばら撒く(傍点)仕掛けを花束に擬してそう呼ばれた)を投下した。数秒後、僕はシュル、シュル、シュルという焼夷弾の投下音を聞き、周囲はたちまち火の海となっていた。火は、空から落ちるのではなく、地から湧いて来た。
花束を投下した敵機は、僕たちの頭上で、ゆっくりと方向転換し、編隊の後を追うように海の方向に去った。その行動ぶりから見て、このB29は、立ち去る前に、余った余計の(!)焼夷弾を捨てるために、この上空まで、ちょっと遠回りしたという推測は間違っていないと思う。サイパン島に帰るまでに必要な燃料の計算は正確で、燃料節約のために執られた行動は合理的だったであろう。他方、そのとき燃料節約のためにバラ撒かれた花束(傍点)から散る焼夷弾のそれぞれがどの地点に着地するかは、彼らの関心外の事項であって、それは、まったくどうでもよいことであった。狙いはない。それは、初めからまったく計算に入っていないし、そんな確率計算をする理由もなかった。結果的に、鍋島侯爵家や松平家のある渋谷松濤町は無傷だったが、飛行機の速度から言って、ほんの一秒も違わない距離にある南平台では、枢密顧問官石井子爵の屋敷は猛火に包まれ、屋敷を逃れて高樹町の親戚宅に向った子爵は、神宮外苑付近で煙に巻かれて亡くなった。誰が生き、誰が死ぬかということは、まったく偶然であり、その間に、いかなる法則性もなかった。
しかし、原因がいかに不条理でも、結果だけは厳然と残る。松濤町から南平台に至るほぼ中間に位置するわが家も焼けた。僕の立っていた場所がほんの数十センチでもずれていたら、僕は直撃を受けて即死していただろう。命だけ助かったのは、幸運と考えなければなかった。まことに人間の運命ほど知り難いものはない。その夜、編隊の殿(しんがり)(傍点)を飛んだB29が余った焼夷弾を捨てに寄り道したとき、弾薬庫の蓋を開いたアメリカ兵は、ただ命令を実行しただけで、落ちて行った焼夷弾の数々が地上に落ち、その後、誰にどんな運命を与えたかなど考えて見ることもなかったであろう。だが、僕たちの運命を左右したのは、確実に無名の彼なのである。
命からがら生き残ったが、僕たちは「焼け出され」だった。家財を焼かれた者は、当時そう呼ばれたのであるが、戦争犠牲者(軍部・皇道主義者の没理性と米国の戦時国際法違反との二重の犠牲という意味で)である彼らに対して、いかなる救恤も施されることはなかった。それどころか、当時、「焼け出され」は、ほとんど「差別語」に近かった。「焼け出され」とそうでない者との間にあった地図面上の距離(傍点)がいくら僅かであっても、その後の現実には、それ程の違いがあったのである。
家を失い、恒産のない父と母の余生は悲惨だった。当然、僕の青春も幸福とは言えなかったし、僕は、兵役に行かずに済んだことを喜んだものの、未来にあまり希望は抱かなかった。僕はむしろ、幼年時代への退行のなかに幸福を求めた。あの年賀状に署名された「石井幸子」という青インクの美しい水茎(みずくき)の跡を、僕は今でもはっきりと目に浮かべることができる。

「昭和十二年 夏」は、永遠の彼方に去った。
しかし、その思い出が僕の胸から消えることはない。
(終)                             

2015−8−15 敗戦の記念日


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