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昭和十二年 夏 同時代人たちに
【純文学 その他小説】

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昭和十二年 夏 同時代人たちに-1

この年、父は、鎌倉浄妙寺近くに別荘を借り、一家で夏を過ごすことにした。これは、平素、倹約勤倹を銘とする父に似ない贅沢であったが、思うに、この贅沢には、八年にも及んだ南洋での勤務を終え、前年、帰朝退官したばかりの父にとって、自分自身に与える労(ねぎら)いと報(むく)いの意味が籠められていたのであろう。永年の厳しい瘴癘地勤務に酷使された彼の身体はボロボロになっており、リューマチと胃潰瘍に悩んでいた。彼が身体的な治療と精神的慰めを必要としていたことだけは確かである。(そこに陸軍武官との対立という経緯があったことは、戦後、父が亡くなってから知った。)
 ときは、まだ審美主義的大正ロマンの残照がかすかに夕空に棚引いている時代であった。とはいえ、前年の二・二六事件は、既に過激な皇道・軍国主義の嵐の接近を予感させていた。荒々しい軍靴の音が近づいていた。
そして、この年の七月七日、盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突した。宣戦布告のない長い戦争が始まった。僕は小学二年生だった。号外の売り子がけたたましく鈴を鳴らしながら、「号外!号外!」と叫んでいた。不吉な鈴の音であった。

 父が借りた家は、浄妙寺の寺門前から滑(なめり)川の岸に向かってだらだら下る道が川に突き当る左角にあった。和洋折衷の平屋(階段がないということが、家探しに当たっての父の条件だった)であるが、滑(なめり)川に向かって拡がる庭は可なり広く、キャッチボールをするには十分だった。だがそれは許されないことだった。そもそも、子供の歓声や、大きな歌声などを耳にするのは、父の身体と神経にもっとも耐え難いことだったのである。
言うまでもなく、滑(なめり)川は鎌倉武士青砥藤綱の逸話を生んだ場所である。それは、父が節約・勤倹を説くのに絶好の場所である。川に落した一枚の十文銭を拾わせるために、雇った人夫に百文も払ったという不条理についての父の説明は、「銭(ぜに)とは、十文銭といえども神聖なもので、川底に捨て置くことは許されない」ということであった。現在では、人夫に支払われた百文は、収入として彼らの家計を助けるだけでなく、消費として、やがて公的利益にも還元されると説明されている。これは、いかにも現代経済学的解釈で面白くないが、ともあれ、ひと夏をその滑(なめり)川の畔で過ごすことに父が満足していたのは、間違いがない。

川に向かって左隣に家主さんの家がある。かなり大きな洋館であった。主人は、安藤さんという洋画家で、サンタクロースのような白い髭が見る目には厳めしいが、実はいとも優しい老人だった。夫人は、ちょっと肥り気味で、その丸顔に笑顔を絶やすことはないという、安藤さんに輪をかけたような、いと優しい老婦人である。お二人には子供がなく(従って孫もない)ということもあってであろう、僕たちを孫のように可愛がってくれ、自分たちを「アン爺(じい)」「アン婆(ばあ)」と呼ばせた。それは、われわれだけでなく、どこでも、誰にも通じる二人の愛称だったようで、お二人は、そう呼ばれることを喜び、誇りにさえしているようであった。外向的な性格の母は勿論、あの気難しい父さえ、「アン爺」「アン婆」とは、たちどころに年来の親友のような間となった。
僕たちの到着からほどなく、安藤家に新顔が登場した。「アン婆」の御親戚の光雄さんと幸(ゆき)子さんである。光雄さんは大学に二年生で、去年、女学校を卒業した幸子さんは、姉と学校は違うが同い年である。光雄さんは、真面目で物静かな青年で、僕は敬意を籠めて「ミツオさん」と呼んだが、「ユキコ」さんの方は、呼びにくいので、僕たちは「ユッコちゃん」と呼んで、なついた。二人の自宅は高樹町だが、大伯父さんの家が南平台にあり、「あら、それじゃ、渋谷駅の近くの××書店かどこかでいっしょだったかもしれないわね」というようなことが、僕たちの親近感を強めたこともあった。


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