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昭和十二年 夏 同時代人たちに
【純文学 その他小説】

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昭和十二年 夏 同時代人たちに-3

その頃、安藤家の庭とわが家の庭を繋ぐ紫(し)折戸(おりと)の上に、のうぜんかつら(傍点)の橙赤色の花が満開だった。この花には揚羽(あげは)蝶(ちょう)の仲間がよく蜜を吸いに来るので、当時蝶の採集に夢中だった僕は、その周りで獲物が来るのを待っていた。それを見た「アン婆」が「ホラ来たわよ」、「ホラまた来た」と教えてくれる。しかし僕には、ナミアゲハのような普通種には興味がなく、紫色の鱗粉の美しいカラスアゲハ、できればミヤマカラスアゲハが来るのを待っているのだ。そもそもそれは、「チョウチョ」などではなく、「蝶類」でなければならない。僕が聞き覚えの知識で説明すると、「アン婆」は、その受け売りの博識(傍点)にすっかり感心していまい、僕に「昆虫博士」という敬称を奉った。
由比ヶ浜へ行かない日が昆虫博士の出番の日である。とはいえ、遠くへは行かれないし、近くに良好な狩場はない。そんなある日、ユッコちゃんが「いっしょに行ってあげても・・」と言ってくれた。僕は、嬉しくなって、すぐ昆虫箱を肩に、捕虫網を手にした。僕には、秘かな目的地があったのである。遠いところではない。滑(なめり)川に沿って暫く下ったところに古い丸木橋がある。それを渡ると、対岸に人家はなくなり、木立ちが濃くなる。蝶の採集家には、猟師の鼻に類する第六感がある。僕はかねがね、そこへ行ってみたいと思っていた。しかし、母に尋ねると、「あんな淋しいところへ独りで行っちゃだめ」と言われていた。姉がそんなことにつきあってくれるわけはない。ユッコちゃんの申し出は、願ってもないことであった。
丸木橋を渡ると、狭い登り道であった。人っ子ひとりいない。蝉の声と小鳥のさえずり以外、物音もしない。いわば秘境である。枳殻(からたち)の白い花にナミアゲハが来ていたが、僕はそんなものには目もくれずに小道を登っていった。背中に青と黄の筋がある甲虫類の斑(はん)猫(みょう)が僕たちの前を飛んでは止まり、また飛んで、また止まる。その性向のために、彼らは俗名道おしえ(傍点)と呼ばれるのであるが、本当に道案内をしてくれているような様子が可笑しくて、僕たちは笑った。僕は、水溜りに口吻を延していたアオスジアゲハの群れのなかの一羽と路傍の草の葉に翅を拡げていたミドリシジミを捕らえた。ともに珍しい蝶ではないが、翅の空色が綺麗なので、標本箱に沢山並べると美しいのである。
暫く登ると、林が切れ、切り株だけ残った空き地に出た。その先にはもう道はない。周囲は暗い雑木林だ。僕は、ここには蝶はいないなと思ったが、ユッコちゃんが山百合の群生を見つけたので、それを少し切って「アン婆」たちへのお土産にしようと、僕たちは草むらに足を踏み込んだ。刺のある刺(いら)草(くさ)の葉でユッコちゃんが足をきらないようにと、僕は空いている方の手を差し伸べてユッコちゃんの手を引いた。ここでは、優位にあるのは、僕の方なのだ!
そのとき、僕は、暗い林の奥から大きな黒い蝶が飛んでくるのを見た。しかし、月並みなクロアゲハくらいだろうと油断していたところ、それがクロアゲハより大型で、飛び方もゆっくりしていることに気が付いたときは、もう遅かった。蝶は、僕たちの頭上までくると、泳ぐようにわざと翅を拡げて通り過ぎた。僕は、「あ!モンキアゲハだ!」と叫んだ。頭上を通過する蝶の後翅に大きな白い班がはっきりと見えたのである。それが何を意味するか、ユッコちゃんには通じなかったが、実はそれは、凡庸な蒐集家が一生にそう何度も出会うことのない稀少種の蝶なのである。神秘な蝶は、僕たちの頭上を通過して暗い林を抜けると、イヴニング・ドレスの裾を曳いて広間を横切る貴婦人のように、優雅に、そしてゆっくりと草原の上を通り、徐々に高度を上げて、向かいの山の林に消えていった。

いったい、子供とは、好奇心に満ちた動物である。何でも覗いて、嗅いで見るのは、子猫と同じ習性だ。家では父の神経に触れないよう、いつも抜き足差し足を命じられていた僕は、安藤家では、「アン婆」が僕たちを勝手気ままに振舞わせてくれるのを良いことに、安藤家で遊んでいる時間の方が多いくらいだった。僕は安藤家を隈なく探索し、だいたい安藤家の隅から隅まで知っていた。ただ、離れのアトリエだけは、「アン爺がお仕事するところだから、行っちゃだめよ」と言われていた。だが、「行ってはいけない」と言われると益々行ってみたくなるのが人情である。


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