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昭和十二年 夏 同時代人たちに
【純文学 その他小説】

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昭和十二年 夏 同時代人たちに-5

*       *       *

その年の暮、僕は、ユッコちゃんに年賀状を書いた。それを見た姉は、「ヘー、幸子さんに年賀状出すの?でも、向こうからは来ないわよ」と言った。僕は、姉のなにか訳知りげな言い方が気にはなったが、何故かと聞いてはみなかった。姉の答は、「何でもない」に決まっているからである。
にもかかわらず、幸子さんからは、ちゃんと年賀状が来た。そこには、こう書かれていた。

 「A(僕の名)君。明けましてお目出とう。また一歳大きくなったのね。敬礼!!」

 簡単だが、僕には、それがユッコちゃんから来た年賀状だというだけで十分だった。ただ、ちょっと引っ掛かるものがあったのは、最後の「敬礼!!」である。それは何となく、「兵隊」臭かったからだ。僕は、兵隊さんが大好きという子供ではなかった。と言うより、僕にとって、大きくなって「兵隊に採られる」ことほど、怖しい未来はなかった。田川水泡の漫画『のらくろ上等兵』は嫌いではなかったにしても、『凸凹クロ兵衛』の黒兎、白兎の方がもっと好きだった。幸子さんには、そういう僕が通じていなかったのだろうか?
 それから数週間経ってのこと。幸子さんには婚約者があり、目下兵役中の彼がいずれ満期除隊の暁、目出度く結婚式を挙げる予定だったところ、この度、許婚者の所属する部隊が大陸派遣軍に編入され、近く輸送船で出航することになった。その船で大陸に出陣する許婚者は、いつ帰るかもわからない。よって、婚約は解消されることになった・・・・という消息が伝わってきた。この経緯の前半は、幸子さんの年賀状にあった「敬礼!」の謎をある程度解くものでもあったろう。だが、後半は、子供の与かり知らない世界での悲劇である。
 数日後、炬燵で蜜柑を食べながらの母と姉の会話が切れ切れに僕の耳に入ってきた。
「それ以来、幸子さんは、納戸に入って戸を閉めきり、何も食べずに泣いてばかり・・・」
「まあ、可哀そう・・・。お気の毒にねぇ。」

 大陸での戦線は拡大するばかりで、満蒙国境では、わが軍は多大の損害を蒙って後退していた。戦争は泥沼となっていた。戦場だけでなく銃後(傍点)でも、物資は次第に窮乏し、国民生活は悪化の一途を辿った。軍部の横暴・専行はその極をきわめ、全体主義の暴力が国を覆っていた。男は誰も丸刈り頭にカーキ色の国民服、女はモンペを穿かなければ道も歩けなくなった。(おくびにも「兵隊は嫌い」などと言ったら、子供だって、その場で殴り殺されただろう。)暗い時代になっていた。

僕は、幸子さんの年賀状を後生大事に持っていた。だがその紙片は、昭和二十年五月の空襲で渋谷の家が焼けたとき、蝶の標本箱とともに塵となった。
その夜、翼を拡げた魔の大蝙蝠のようなB29の大群が東京の山の手を襲った。三月の下町大空襲のときは、山の手の住民は、或る程度高見の見物であった。日本軍戦闘機も出撃し、地上からの高射砲弾の光跡は花火のように美しかった。飛行機が火達磨になって落ちるのを見て、彼らは両国花火の観客のように喝采したが、実は、それが敵機ではなく哀れな「ゼロ戦」機の姿だったことを、愚かにも彼らは信じなかった。
五月の空襲は、それとは様変わりであった。米国にとって、三月の空襲には、日本の工業・商業施設を破壊し、帝都の機能を麻痺させて抗戦力を壊滅させるという明確な作戦上の目的があったとすれば、五月は違った。既に抗戦能力を完全に失っていた日本の指導者が正常な理性と判断力の持ち主であれば、日本はもう「柔道場の畳を叩き」、「ロープからタオルを投げ」なければならない筈である。ところが、日本の指導者――そして盲目な国民――は、正常な理性を持たないとしか考えられなくなっていた。とすれば、その蒙を開くには、徹底的に恐怖を与えるしかない。米国はそう考えた。土台、天照大御神以来万世一系の天皇を生き神と信じている日本人は、現代文明社会において、まったく異質の存在である。彼らを常識のレベルで扱うことはできない。米軍機が日本の軍事施設や工場ではなく、むしろ非戦闘員である一般市民を標的とした組織的な都市爆撃を激化したのはその頃である。(その延長線上にあったのが広島、長崎である。)それは、明瞭な戦時国際法違反であるが、戦争に法律を持ち込んでも仕方がない。俗に言う勝てば官軍であり、負ける戦争をしてはならないのである(常識では)。


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