螺旋-11
消したはずのメールアドレス。
あいつの甘ったるい笑顔が浮かぶ。今さら何だと言うのだろう。
「最近寒いね、どうしてる? って、なんなの?」
口に出して読んでみて、独り言がぽとりと落ちる。
もう一度、今さら何だと言うのだろうと思った。
わたしはそのメールを返信もせずにそのまま削除した。
いらないわ。今さら何なのよ。せっかく良い気分で片付けをしていたというのに。
しかも、しかも。一番腹がたつのは自分自身だ。あいつのメールアドレスをしっかりと覚えていたなんて。
泣いて、泣いて、涙が枯れてしまうかもしれないというくらい泣いて、それでもまだまだ泣けてきて、馬鹿みたいに毎晩泣いて過ごしたあの日のことをわたしはほとんど誰にも打ち明けていない。
いつも一番に話をしていた友達も失ってしまった。
わたしは途方もなくひとりだった。
苦々しい思いを振り切るように、わたしはざばりと両手を冷たい水で洗った。
「今から向かいます」
ヒロキくんから連絡があったのは十九時になる五分前だった。
カップを温めておこうか、ルームフレグランスはきつすぎないか、エアコンと加湿器は問題なく動いているか、そわそわしながら待つ。
誰かを自分の家に招くときはいつも緊張する。
初めての相手なら尚のこと。
ヒロキくんはバイクで向かうと言っていた。
バイクや自転車の置き場所はこのワンルームマンションの奥まったところにあるので、着いたらマンションの門の前で待っていてもらうことにした。
彼はどんなバイクに乗っているのかしら。
そういえば、あいつもいつもバイクに乗っていた。
わたしを後ろに乗せても余裕のある大きさのビッグスクーター。
今はあの子を乗せて走っているのかなあ。まぁ、どうでもいいけれど。
そんなことを思いながら珈琲の用意をしたり部屋のチェックをしたりしていると、ヒロキくんから着いたという連絡があった。
迷わず来られたみたいだ。
わたしはドキドキしながら鍵とスマートフォンを手に、部屋を出た。
「おいしい!」
ヒロキくんが珈琲をひとくち飲んでにっこり笑った。
天使のような笑顔。
ヒロキくんの笑顔をみているとこっちまでなんだかハッピーな気持ちになる。
この笑顔のためなら、どんなことだってできるような気がした。
「このパウンドケーキもおいしいーっ」
「よかった。バイトの後だし、おなかすいてるかなって思って」
「へへへ、当たりーっ。ほんと、おいしい」
わたしはまるで可愛い弟ができたような気持ちになった。
あいつも甘えん坊な男だったけれど、ヒロキくんはあいつとは違った甘やかな雰囲気がある。
あいつとは。
あいつはただの馬鹿な男だ。あんなやつ……。
「さっきね、元カレからメールがきたの」
「えっ、そうなの?」
「うん。嫌な気持ちになったから返信もせずに削除しちゃった」
「そうなんだ、いいじゃん。消しちゃえ消しちゃえ!」
ヒロキくんがいたずらっこみたいな表情をして言った。
「それに、沙保さんには僕がいるからね」
「えっ」
「そこのベッドサイドの薬の袋、枕元に置いているくらいだし、睡眠薬でしょ? 眠れないのかなって思って。僕、力になれることがあったら何でもするから。相談してね」
「あっ──」
わたしはばつの悪い顔をして目を伏せた。
ヒロキくんってば、よく見てる……。