ちびま○子ちゃん-5
(5)
胸弾み、心ときめく一日だった。
「仕事のことは忘れて一日ゆっくりしてらっしゃい」
女将さんに送り出されて助手席に乗り込んだ時は恥ずかしくて顔が熱くなった。隣の健一が笑っている。
車が動き出し、
(2人きりなんだ……)
ふとそんなことを想い、どこかへ旅立つような昂揚感に包まれた。
新緑の季節であった。
「ここは吾妻渓谷」
健一に教えられて美しい景観に子供みたいに歓声を上げた。窓を開けると爽やかな空気が車内に流れてくる。陽を受けて眩いばかりのさ緑に染まっていくような気がした。
車中、健一がよく喋ってくれたのでぎこちなさもすぐにほぐれて、シートに凭れた体が軽く感じた。
真美子の身の上について一切触れてこなかったので気持ちも楽なっていた。おそらく渡り歩いてきたことは女将さんから聞いていることだろう。
(気を遣ってくれているのかしら?……)
そう思うと嬉しかった。
行く先々、どこも知らない所ばかりである。
榛名湖、榛名山。ロープウェイに乗る時、健一が真美子の手を握ってくれた。一瞬体内に走った感覚は経験したことのないものだった。
(心地いい、でも何か、もやもやとしたものがいっぱい含まれている……)
そんな感じであった。
(そういえば……)
意識した異性に手を握られたのは初めてである。その意識が『感覚』の源だったのかもしれない。
車両が動き始め、真美子はよろけて健一の腕にすがった。昨夜触れた部分がじわっと疼いた。
帰路、真美子は女将さんの言葉を思い出していた。
「……ゆっくりしてらっしゃい……」……
もしかしたら、どこか休むところに寄るかもしれない。
(考えすぎかな……)
昨日会ったばかりだ。でも、そうなったら、健一が望んだら、真美子は身を任せるつもりでいた。まだ彼のことはほとんどわかっていない。それなのに感情が溶けたようにほんわかとなって、健一と融合したがっている自分がいた。
初めて自分を好きだと言ってくれた人だからか、しかも考えたこともなかった結婚という具体的な形まで備わっている。
それもあったかもしれない。でも、幸せな気持ちに揺れていたのは健一から伝わってくる『想い』だった気がする。とても曖昧なのだが、理屈では言いきれない、彼の真美子に対する気持ちがそばにいるだけで感じられたのである。独りよがりだったかもしれないけれど。……
車はまっすぐ清水旅館を目指して走った。見なれた街並みに入った時に健一が言った。
「ぼくはまだ旅館のことをよく知らないんだ。旅館の息子なのに恥ずかしいんだけど。だからこれからいろいろ助けてほしいんだ」
真美子は咄嗟に言葉が出てこなかった。
「ずっと気が乗らなくて好きなことしてたけど、お袋も齢だし、いい加減に腰を据えて旅館を継ごうと思って蔵王に行ったんだけど、何か身が入らなかったんだ。それが真美子さんに出会って、写真を見ただけでやる気が湧いてきた」
「あたしなんか、ただの仲居です……」
「仲居さんだから細かいこと知ってるでしょう?」
健一はもっと話をしたかったようだが旅館が見えてきて言葉を切り、ちらっと笑顔を向けた。
翌日、健一は蔵王へ戻って行った。あと2ヶ月勤める約束だという。
「7月末には帰ってくるの」
「はい……」
「待っててくれるわね?」
「はい……」
小さな返事をして俯いた。
健一が「助けてほしい……」と言ったのはプロポーズなのだろうか?女将さんの言葉は『結婚』へのスタートラインに並んでほしいということか?たった1度ドライブをしただけである。
(いいのかしら……)
真美子の心は歓びを感じながらも乱れていた。
7月に入って間もなくのこと、女将から出張を言い渡された。一介の仲居が出張だなんて聞いたことがない。
「あなたも仕事を通じていろんな旅館を見てきてるでしょうけど」
お客としてよそ様の接客やサービス学んできてほしいという。ふだん気付かないことが立場を変えると見えることもある。
「明後日から2泊3日でね。部屋は予約してあります」
列車のチケットも用意されてあり、添えられた旅館のパンフレットを見て真美子は内心驚いた。
(蔵王温泉……蔵王閣……)
健一のいる旅館である。
「ここは……」
真美子の顔を見て女将さんの顔がほころんだ。
「あくまでもお客として行くんですよ。あちらの女将は知らないことなの。出張といっても調査じゃないから気楽に考えていいのよ。あたしも何度か行ったことがあるけど、とてもいいお湯。日頃の疲れを癒してくるといいわ」
「はい……。でも……」
「健一はあなたが行くこと、知ってるから……」
女将さんはそれ以上何も言わなかった。
あと半月あまりで健一が戻ってくる。真美子ととの距離をより接近させようという想いだったのだと後に思ったことである。