5.つきやあらぬ-20
「やっ……! 痕付いちゃうっ、やめてっ!」
「何も付いて無いわよ。オキレイな背中ですこと」
紅美子は憮然とした表情で座り直して空を見た。真上を向くほどに青みが増す。「透き通るような青空」とはこのことだ。春を唄う鳥が頭上を飛んでいく。
「ママ……」
「んー?」
「大丈夫かな。私、ヘンじゃない?」
「……」溜息をついた母親は、「大丈夫じゃなかったら、もうとっくに言ってるわ。娘の晴れ姿なんだから、親も一所懸命だよ」
「うん……。ありがとう」
まぁっ、と目を見開いて母親が紅美子を見た。
「そんなガラにも無いこと言っちゃダメよ。……雨降ったら大変」
「ちょ、今しがた、娘の晴れ姿、なんて褒めてくれたばっかじゃん」
「晴れ姿ってのは見た目の話。黙ってさえいれば、美人で自慢の娘なんだけどねぇ……。性格だけ、私に似ちゃって、もう……。失敗したなぁ、子育て」
「娘の晴れの日に、失敗作なんてレッテル貼らないで」
紅美子は笑って、ふと傍らへ目を向けると、近くの歩道を行き交う人が自分たちに必ず目を向けてきていた。とんだ見世物だな、と思いながらも、今日だけだからまあいいやと一息つき、
「ママ……」
また呼びかけた。だんだんと「失敗作」と言ってしまったことが悔やまれていた。
「……もぉっ、何なのこの子ったらっ。ジッと待ってられないの?」
「ありがとう」
紅美子は目を逸らして着物の膝の上に揃えている母親の手の上に純白のグローブの手を乗せた。
「ダメよ、クミ。『産んでくれてありがとう』なんて今言ったら。……母娘そろって、涙でボロボロの顔で出ていきたいの?」
笑う母親の声の最後は潤み声で震えていた。紅美子も目尻が震えそうになるのを、うん、と言って必死に我慢した。
「――タバコ吸いたい」
「バカッ、どこの世界にウエディングドレス姿でタバコ吸ってる花嫁がいるの」
「だよね」
紅美子は大きく息を吸い込み、「でも緊張してきた」
「……大丈夫よ」
そこへ携帯の呼び出し音が聞こえた。もしもし、はい、わかりました。二人の座る人力車の側で片膝で控えていた車夫が、
「……じゃ、行きますよ。持ち上がりまーす……」
と言って、引き手を持って慎重に立ち上がった。和装の母親とウエディングドレス姿の紅美子を乗せて路面を滑るように進んでいく。初めて乗った人力車は、大きい車輪と車夫が気を使っていつもよりゆっくりと引いていくれるお陰で殆ど揺れなかった。公園の遊歩道へ入っていく時、すれ違った老夫婦に「おめでとう」と言われて母親は頭を下げ、紅美子は手を振った。人力車は川べりに向かって進んでいく。
「なかなかの男だね」
車夫の隆々とした背中の筋肉を眺めて母親が言った。若い車夫は確かに端麗で爽やかな印象で、確かにこれなら観光客の若い女子には集客力があるだろうと思った。
「お兄さんは、いつから人力車引いてるの?」
「ママ、こんな日に逆ナンやめて」
車夫は少し振り返り、爽やかな笑顔を向けて、
「いえ、僕はバイトなんです」
と言った。
「まぁ、大学生?」
「はい。……僕、自転車部なんです。なのでトレーニングにもなるんで、ウチの部活の連中、よくこのバイトやってます」
「へぇ……、どおりでいいカラダしてるわねぇ……。男前だし」
「そんなことないですよ」少し上り坂になったので下半身を踏み込んで力強く引き始めた。「でも、花嫁さんを引かせてもらえるのに選ばれて光栄です」
(きっと光本さんチョイスだな……。こんな感じの子、ド真ん中でしょ)
そう思う紅美子を乗せて、人力車は陸上トラックの側を抜けて、道なりにUターンして隅田川へと向かっていく。桜橋が見えてきた。
「……何、あれ」
橋の中央、人力車が向かうゴールには人だかりができていた。人々が囲むスペースの中に、一際小さな人影が紗友美、その隣で黒の礼装と和服でいるのが徹の両親。そしてグレーの衣装で直立不動で立って待っている。徹だ。人だかりの一人が人力車に気づくと、皆がこちらに顔を向けてくる。中には手を叩いている者もいる。人力車が川岸に伸ばした片端から桜橋に入ってくると、騒めきと拍手が大きくなる。
「到着しました。下ろしますー」
群衆の輪の手前で停めた車夫は慎重に引き手を下ろし、動かないよう引棒の上へ体躯を下ろして、紅美子の母親の方に手を伸ばす。母親はニコニコと車夫に手を引かれて人力車を降り、少し離れたところにいる徹の両親と、その周囲に深々と頭を下げた。紗友美が小走りでこちらへやって来た。
「……光本さん、何これ?」