5.つきやあらぬ-17
「仕事の話じゃない」井上が指示器を出して高速を降り始めた。「……君が愛を乞いに徹くんの所へ向かう手助けをさせられてる」
「……タバコ吸うの早いね」
灰皿を差し出すと、井上が中へ刺し込んだ。指先が井上の唾液に濡れるのを感じながら、タバコを摘んで押し潰して灰皿の蓋を閉める。あとどれくらいかかるのかはわからないが、一般道に入ったということは近くまで来ているのだろう。「化粧直したいんだけど、電気点けていい?」
紅美子が言うと、井上は天井の電灯を点けた。コンパクトを取り出し顔を覗きこむ。小さな鏡では部分々々しか映らないが、どこを見ても酷い顔をしていた。涙で垂れ落ちているマスカラを拭い、
「私に徹を幻滅させるためじゃなかったら、もともと、何であんなモン見せようと思ったの?」
と、先ほど打ち切られた疑問をもう一度問うた。
「そもそも見せるはつもりなかったさ。だけど今日、君が別れ話をしてきたからね」
「なんだ。じゃ、やっぱり私を繋ぎ留めようとしたんじゃん」
「ちがう」カーナビの表示を覗き込みながら、「君が嫉妬するとこを見たくなったんだ。変態だからね」
「……ド変態だ」
「嫉妬に暮れる君を縛って、彼の姿を見せつけながら抱くつもりだった。……で、言いたかったんだ。『僕の気持ちが分かったろ?』って」
「ほんと、根性、ひん曲がってる」
「ああ」井上は笑いながら、「やらなきゃよかった」
「なんで?」
「ビデオを見たら僕好みの君じゃなくなったからね。自滅した。決定的だと思った」
「決定的?」
「君が欲しくて色々やってるのに、徹くんに追いつけないどころか、君と徹くんの仲がどんどん良くなってくのは分かってた。やりきれないだろ? ……君にビデオを見せた時、それでも君は、徹くんを受け入れてしまうだろうと思った」
「私、あんなキレてたのに?」
「ああ。確信したよ。こりゃ敵わないと思った」
井上が力なく笑った。今まで見せてきた自信に満ちた姿とは到底かけ離れて、失意を露呈していた。そんな井上の姿を見ていると、今日で最後なんだと実感されてくる。「中国で負けたことよりもこたえるね、これは。二十年なんて屁でもないって思ってたのに、負けた。惨敗だ」
化粧を直し終わるとルームライトを消した。車の中に薄闇が戻る。井上の横顔が緑色のコンソール表示に照らされている。それを見ていられなくて、紅美子は前方に視線を移した。この道は自転車で走った時に見た気がする。ということは、もう少しで着くということだ。
「全部許して、徹くんと結婚しろよ」
井上が静かに言った。
「あんた、私と徹の結婚に反対じゃなかったの?」
「愛人の結婚に賛成する奴なんかいないだろ」
「……思い出した。温泉行った帰り……、えっと、なんだっけイン何とか」
「思い出せてないな、それは」笑った後、答えを教えてくれる。「インセスト・タブー?」
「そう、それ。私と徹がきょうだいみたいだって。姉と弟」
「君が、姉か」
「そう。もちろん私がお姉ちゃん。……徹のお母さんね、徹を産む前に一人、女の子を流産してたんだ。だから私のことを特別可愛がってくれたんだって徹から聞いた。けど徹のお母さんはすごく私に優しくしてくれたから、誰かの身代わりでもすごく嬉しい。だから私がお姉ちゃん」
「ま、たしかに君は妹っていうキャラクターじゃないな」
「失礼だな」
真っ暗な農道にアウディの光だけが差す。両側の暗がりに向かって稲の刈り後がずっと広がっている。ここをまっすぐ行って、目の前の山にぶち当たればそこが徹のいる場所だ。「近親相姦みたいなもんだから、ダメだって言ったじゃん、あんた」
「ダメだとは言ってない」
「でも私達の結婚にケチをつけた。……あん時はただムカついたけど、ね、なんでそんなこと言ったの? ……今はなんで結婚しろとか真逆のこと言ってんの?」
「……何故タブーかは前に言ったとおりだ。結婚は女性の交換なんだから、身内の中でやってたら、その一族は社会に開かれていかない」
「でも、私と徹は実のきょうだいじゃないよ? っていうかどう見ても普通の結婚」
「……」
アウディは農道を抜けた赤信号で止まった。右折して、尾根沿いに走れば徹のアパートの前に出る。カーナビには「G」のマークのアイコンが揺れていた。あと一キロもなかった。
「もったいぶらないで」
信号が青に変わると紅美子が急かした。どの方向からも車は来ず、歩行者や自転車の影も見られず、井上が出した指示器の音が虚しく響く。
「……交換、っていうから分かり辛いんだと思う。……着いた」
ハザードランプが灯され、アウディが路肩に寄る。「あれか」
井上は前屈みになってフロントガラスから見上げていた。山肌に立つアパート。一つの部屋のカーテンからから電灯の明かりが漏れていた。
「……徹と結婚したほうがいい?」
「僕に訊くな」
「最後くらいサービスしてよ」
「交換する前にもっと重要なことがある。――『選択』だ。……選ぶほうだぞ? 念の為」
井上は息をついてシートに深く凭れ、ヘッドレストに後頭部を押し付けて指で眉間を揉んだ。「……マンションの鍵」