5.つきやあらぬ-14
車に篭った煙を逃がすため、井上が運転席と助手席両方の窓を少し開けた。外から対向を走る車音や、アウディの唸るようなエンジン音が車内へ流れこんでくる。「……そんなの知らない。徹、栃木に行く前の日に私のこと抱きしめながら、浮気したら殺していい、って言ったもん」
「あれは浮気じゃない」
「意味わかんねーし。アレを浮気じゃないって認めてたら、世の中の男、何でもヤリたい放題じゃん」
紅美子はパンプスを脱ぎ、脚の付け根まで露出するのも厭わずに片脚をシートに上げ、立てた膝頭へ顎を乗せた。
「まあね。でも君が世間の良識を保とうとする義務はないだろ? 何にだって例外はある。……落ち着いて考えろ。浮気だったら、君に会いたいなんて言わない。君を遠ざけようとする」
「ね、なんでそんな必死?」
「……」
井上はジャケットから携帯電話を取り出し、前方を見ながらも時折画面に目を落として操作し始めた。
「捕まるよ? 携帯使いながら運転してたら」
紅美子がそう言っても、井上は携帯を耳に当てる。ハロー、という第一声で英語で話し始めた。前を見たまま抑揚なく淡々と話している。紅美子は膝に顔を押し付けて目線だけで前方を見た。同じ方向へ向かう車のテールランプがいくつも見える。赤い光は時折またたき、黒い夜の景色の一点へ吸い込まれるように続いていた。この人たちはこの時間から東京を離れてどこへ行くんだろう。自分と同じようにどこでもない、虚夢の場所へ向かう人はいるかしら。BGMのような井上の英語を聞き、紅美子は不毛な思いを馳せていた。電話が終わる。
「仕事忙しいんだね。何言ってたのかさっぱりわかんないけど」
「……まあね。もう一本かける」
井上がまた画面を操作すると、今度はコンソールの前に取り付けてあった携帯ホルダーへこれを立てかけた。ハンズフリーにした呼び出し音が続く。
「もしもし?」
可奈子の声が聞こえてきて紅美子は顔を上げた。
「僕だ」
「……喜んでくれた? 私のプレゼント」
「あんまり嬉しいものじゃなかったね」
「そぉ? ……ちゃんと、あの若くてキレイなカノジョと二人で仲良く観てくれた?」
「……」
井上は暫く黙った。
「もしもし?」
可奈子が呼びかける。
「いや……、彼女には観せてない」
紅美子は井上を訝しげに見た。井上が横目でチラリと紅美子を見て、人差し指を口の前に立てた。
「あら、約束が違うじゃない」
「そんな約束はしてない」
「いいの? 私がゴキゲン損ねちゃっても」
井上は息を付き、咳払いをした。
「……ああ、かまわない」誰に対してか分からない、肩の力を抜いた仕草をして、「佐野さんに伝えてくれ。資金援助は要らない、とね」
「どうしちゃったの? あなた、そんなに諦め良かったっけ?」
「……いや、諦めた。上海はもう撤退するしかない。大連もじきにそうなる。焼け石に水だ」
可奈子は暫く間を置いたあと、不機嫌そうな声で静かに言った。
「何よつまんない」
「可奈子」
「馴れ馴れしい。別れたんだから、気安く呼ばないで」
「……彼にはもう手を出さないでくれ」
「彼? 笹倉くん?」
可奈子の口から徹の名を聞いて蘇る怒りよりも、井上が可奈子に言った依頼の意外さが上回っていたから、紅美子は何も言わずに会話を聴き続けていた。
「ああ。君も充分楽しんだろ?」
「なーに? 私が笹倉くんをメロメロにしたら、あなたにとってはチャンスだと思ったのに」
「余計なことするな」
井上は目を細めて、凄みを効かせた。「彼をどうにかしなくても、それくらい落とせる」
「それは失礼なこと言っちゃった? ずっと落とせないでヤキモキしてるくせに。……あれ? もしかしてそっちも諦めちゃったの?」
「君には関係ない」
可奈子はまた暫く黙った。井上はともすれば荒くなりそうな運転を自制するためか、少しスピードを落としていた。
「……いいわ。つまんなくなっちゃったから、やめるね。カワイイ子だったけど、別に最高ってわけでもないし。あれくらいなのは他にいくらでもいるから」
可奈子の言い草に舌打ちをし、激情的に身を乗り出して罵声を上げようとした紅美子を、
「そうしてくれ」
井上が先に可奈子へ言いつつ片手で制して言った。