4.月は自ら光らない-1
4.月は自ら光らない
鏡の前で左右を確認して、さて出かけるかと思ったところで携帯が鳴った。
「よう」
久々に話す早田の声には溌剌さが無かった。紅美子は冷蔵庫に貼り付けられたデジタル時計を見ながら、
「何? 突然。珍しいからビックリするんだけど」
と言った。
「悪りぃ。今、時間ある?」
「ごめん、今から出かけるんだ」
「そっか。……ちょっと話があんだ。駅まで歩きながらでいいからさ。曳舟から乗る?」
「急に何なの? 別の日じゃだめ?」
「頼む」
紅美子はつけていたテレビと部屋の電気を消し、バッグの中身をもう一度確認しつつ、
「女紹介しろ、っつってもアテないよ?」
「そういう話じゃない。……そこには困ってねえよ」
早田の笑い声を聞いて、紅美子は溜息をつき、もう一度デジタル時計を見た。約束までにはまだ時間の余裕がある。途中、百貨店に寄ってお気に入りのブランドショップの新作でも見ていこうかと思っていたが、どうせ見るだけで虚しくなるのは明らかだったから、
「わかったよ。じゃ、浅草から乗る。歩きながらでいいでしょ? どこにいんの?」
「お前ん家の近くのコンビニの前」
「郵便局の近くのほうの?」
「そう、それ」
「なんだ。すぐ近くまで来てんじゃん。私、家にいなかったらどうするつもりだったんだよ」
「そん時はそん時だよ。……ま、ゆっくり来てくれていいぜ。待ってる」
「もう出るよ。五分以内に着く」
紅美子は戸締まりをしてアパートを出た。浅草方面に向けて住宅街を抜け、少し大きめの道路に出ると、コンビニの前に早田が立っているのが見えた。平日にも関わらず私服姿だった。
「よう、おつかれ」
「……今日、休み?」
「ああ。三日休みなんで、実家にいる」
「へぇ。……そうやってフツーの服着てると、その辺のニーチャンだね。世界企業の社員とは思えない」
「オネーサンこそ、そんなにオシャレしてどちらへ?」
「いいじゃん、そんなこと。行くよ?」
紅美子が歩き始めると早田が並んで歩き始めた。
尾形精機は二ヶ月前にバドゥル・インターナショナルの傘下企業に経営権が委譲された。統合されるや親会社名義の人間が長職にとって変わり、短期間のうちに業務フローが一新されていった。その間に、井上の予告通り、紅美子も紗友美も契約打ち切りとなった。その後ともに働いていた社員たちがどうなったかは知らない。紗友美はすぐに次の派遣先が決まった。しかし紅美子はなかなか決まらなかった。特に焦りはない。半年以内に結婚を控えており、所帯を構える徹の勤務地によっては仕事を変えなければならないから長期では働けない。そうなるとなかなか手を上げてくれる企業も無い。とはいえ結婚までの間収入ゼロというわけにもいかなかったから、母親のスナックの常連客のツテでクリーニング店の窓口と弁当屋の店員のパートを掛け持ちしていた。
「笹倉、元気?」
歩きながら早田が問いかけてきた。
「元気だよ。あと三ヶ月で配属だから、追い込みで頑張ってる」
「そっか。東京に戻ってこれそう?」
「よく分かんないけど、一応、トップに近いらしいよ。……一番だからって、希望通りになるか知らないけどね」
「おー、やっぱすげえな。トップ取るつもりないのにトップになっちゃう奴、いるよなー。昔からそうだ」
「別に私、東京じゃなくたっていいんだけど」
隅田川で勢いを増し、低層ビルの狭間で渦を巻いて吹き込んでくる風に髪を乱されて、紅美子は耳の辺りを抑えて歩む先の足元だけを見ていた。
「そうなの?」
「だって、徹が配属された先に私が行けば済むことじゃん? 別にどこだっていい。誰かさんの会社が私が働いてた会社をツブしてくれたお陰で、身軽だしね」
「……そっか。笹倉は幸せだ。女帝サマはどこにでもついて来てくれるらしい」
「……ね」
赤信号で立ち止まって早田を向いた。「そんな話しにきたわけ?」
「ちがうよ、もちろん」
早田は小さく笑った。「そんなニラむな。こえーよ」
「顔のコワさはもともとだよ。……そうやって変に探り入れようとしてくる感じ。中学の時のこと考えると、あんたらしくないね」
「わかったよ」
早田はデニムのポケットに手を入れて肩を竦め、赤信号の残り時間の表示を見つめていた。