4.月は自ら光らない-4
「……いや、今は俺の意志で来てる」
「安心した。……私がさげまんだって教えてくれてありがと」
そう言って、結局紅美子は早田を一度も振り返らずに桜橋をあとにした。
銀座の或るビルの最上階にあるイタリアン。その窓際の席で食事をとっていると、正面に座る井上の背後から人影が近づいてきた。
「もしかして、と思ったらやっぱり」
中年というには肌に張りがあり、体にフィットしたスーツが体の弛みを殆ど許していないことを伺わせる女だった。前髪を七分にパートしたボブスタイルが若々しさを現し、横長のアンダーリムのメガネが知性を醸している。女は井上の肩に手をかけてニコやかに微笑みながら、
「日本に帰ってきたの?」
と語りかけた。
「いや、まだドバイと行ったり来たりさ。君こそ日本で会うなんて珍しいな。学会か何か?」
「ううん、私は正真正銘、日本に戻ってきたの。大学辞めてね」
「ん? バーランド総研との共同研究はどうしたんだ?」
「飽きたの。……女にお金も名声も与えるつもりはないみたいだし」
無意識なのかもしれないが、真っ赤なマニキュアを施した女の指が井上の肩をゆるりとなぞっている。
「……君なら乗り越えると思ってたけどね」
「乗り越えられるわ。でも、時間がかかりそうだったから。……ムダでしょ? そんなの」
井上は店員を呼んでグラスを持って来させると、ワインを注いで軽く鳴らした。
「これ、何の乾杯?」
「帰国祝い、にしとくか。日本で何するんだ?」
「企業の客員研究員。これでもそこそこ学会で名前売れてるから、『主席』まで付けてもらっちゃった」
「へぇ、何の研究?」
「たぶん、何もしないわ」立ったまま女は一口ワインを飲み、「広告塔よ」
「いいじゃないか。『何もしなくていい』ってなら、君が好きな研究ができるんだろ?」
「そうね。そうするつもり」女は漸く紅美子の方を向いた。「――その子は? 五人目か六人目くらいの奥さん?」
値踏みするような目を向けられて紅美子が眉を顰めると、女はワイングラスを持ったまま肩を一度竦めてグラスの水面を揺らした。
「何人か飛ばしてる」井上は笑って、「君が知ってる女房とは別れてない」
「あら、案外長続きしてるのね。……じゃ、この子、なぁに?」
「……仕事相手さ」
女はワイングラスを持ったままの拳を口元に当てて、メガネの中の瞳を細めた。
「――ふぅん、いい仕事相手に恵まれてるわね。私のことずっと睨んでる」
女はクスリと笑った。その表情が明らかに紅美子を見下していたので、
「失礼しました。もともとこういう目なんです」
と不機嫌な声を隠さずに言った。
「ま、コワい」と言ってから井上を見下ろして、「……本当にあなた好みの子ね。いつまでたってもこういう子、好きなんだから」
「それ以上イジメないでくれ」
井上は女がやってきた方を向いた。「パートナーが待ってるんじゃないのか?」
同じく窓際の席で、身装の良い高年の男の後ろ姿が見えた。
「そうね。これ以上ここにいたら、この子に引っ掻かれちゃう」
もう一度女が笑うと、反射的に紅美子は怒りの炎を目に燃やしてしまって、何かを言おうとしたところへ井上が軽く手のひらを見せて制した。ごちそうさま、と言ってルージュの少し付いたワイングラスを置き、女は自分の席に戻っていった。
「――誰?」
「昔の知り合いさ。……気になるのか?」
「別に。ムカつかされたから、誰かくらい知っておこうと思って」
井上は店員に手で合図をして、紅美子のグラスにノンアルコールワインを注がせた。
「ヤキモチ?」
「んなわけないでしょ」紅美子は一蹴して、「あの女の態度が超ムカついただけ。何? アレ」
紅美子は頬杖を付いて、窓に映る井上の顔を見た。井上もまた女と同じように余裕ぶった態度でワインを揺らしている。「……あ、そっか。まだあんた、あの女と」
顎で井上の背後の女を指し示して、
「――あの女と繋がってんだ? だからあの女、あんな余裕」
と言った。
「濡れ衣だ」
井上は笑って、「もう別れた。彼女は二人目の女房だ」
「……」
紅美子は暫く黙ったあと息をついた。肩が動いてしまったのが悔やまれる。「……私と鉢合わせたのが、今の奥さんじゃなくてよかったね」