3.広がる沙漠-6
『うん』
紅美子は携帯を脚の上に下ろして、深い息をついた。
「……うまくウソをついた?」
「もう、バレたら絶対許してもらえない」
多摩川を渡っていく井上の言葉に、紅美子は大きな溜息をついた。
「徹くんが君を許さないことなんてあるのか?」
笑みを含んだ声が聞こえてきた。横顔を見る。機嫌が直ったのかもしれない。
「さぁ? 許してもらわなきゃいけないこと、したことないから」
「家はいいのか?」
「ママ? 別に連絡せずに帰らないこともあるし。ママも帰ってこないこともあるし」
東名に入って走りやすくなったからか、肘置き凭れかかって片手で運転しながら、暫く井上は考えていたようだったが、
「君の母親と徹くんは仲が良さそうだな。何となく」
とチラリと紅美子を見た。
「なんでわかるの? ママが徹のこと大好きだけど」
「てことは、君の母親が、帰ってこない娘は週末にフィアンセに会いに行ってるんじゃないかって、徹くんに連絡を取ってしまう、なんて事態は?」
「……。……へぇ、場数が違うんだね」
紅美子は再び携帯を取り出し、紗友美の家で飲んで泊めてもらう、と母親にメールを送信した。
「ウソは大抵ひとつじゃ収まらない」
「そうだね。もうウソまみれ。最悪だよ」
「……父親は?」
「それは大丈夫」
紅美子は窓枠に頬杖をついて外を眺め、「私、自分の父親の顔知らない」
「死別……? いや、それなら顔は分かるか。離婚か?」
「さぁ? ……でもきっと、あんたみたいな父親だったのかもしれない。ママが『ヤクザだ』って言ってた」
「僕がヤクザだって!?」
井上は運転しながら肩を揺すった。「そんなことを言われたのは初めてだ」
「やってることは変わらないでしょ。ヤリたいように女犯してる」紅美子は、はあっ、と大きな溜息を聞かせ、「……私、レイプされて出来た子供なんだ。最悪だよね? 母娘二代にわたって、レイプされてんだもん」
「だから、君はレイプじゃないって言っただろ?」
「ふざけないで――」
もう何度目か分からない会話に最早激昂はなくなり、呆れた表情で運転席を見やったが、井上は笑っても嘲ってもいなかったから、紅美子は息を呑んだ。
「レイプの加害者と被害者が仲良く温泉へ行くなんてあるか?」
「……」
「二週間の間に忘れたのなら、あっちに着いたらじっくり思い出させる」
井上が紅美子を見やって来た。あの眼だ。枝葉のことは忘れても、二週間ずっと頭から離れない瞳に見据えられ、紅美子は頬杖を外して助手席で脚をピッタリと閉じた。ひらひらとしたバルーンスカートはパンツスタイルより心もとなく感じられる。
「……前、見て」
紅美子は井上から目を反らした。鼓動が早くなっている。紅美子は脚を更に強く閉じ合わせた。スカートの奥にまで刺し込んでくるかのような眼は、紅美子の下肢にあの甘美な疼きを思い起こさせた。恋人と親にウソをついた体は、丸腰にされて井上の目線に痛烈に晒されていた。
「……いくつ?」
「何が」
「歳。私、あんたの歳知らない」
これ以上井上の眼を気にしていては、疼きと罪悪感に身が弾けてしまいそうだったから、必死に話題を探して問うた。
「……きっと君の母親と付き合ったほうがお似合いだ」
「そ。ママ紹介しようか?」
「君に似てる?」
「あんまり言われたことない。でも美人だよ」
「……僕が君の時と同じように母親を抱いてるところを想像したら、おかしくなりそうだろ?」
危うく本当に想像しそうになって、慌てて失笑でそれを打ち消し、
「そうね。やめとく」
と肩を竦めた。「……っていうか、私、自分の親くらいの歳の男に犯されてんだ。それはそれで頭おかしくなりそう。……そもそもあんた、一体何の仕事してんの? マトモに仕事してるように見えないんだけど」
「人聞き悪いこと言わないでくれ。正真正銘、バドゥルの社員だよ」
「社員証は?」
「……」
井上はジャケットの内ポケットから長財布を取り出すと、ポン、と紅美子の膝の上に投げ置いた。
「不用心だね。私が悪い女なら中身パクるよ?」
紅美子は財布を開くとカードホルダーから全て英語記載のIDカードを取り出す。
「ヒ、ロ、ミ、イノ、ウエ……。あんた、ヒロミって名前なの!?」