3.広がる沙漠-5
谷町ジャンクションを大きく左折して、アウディは渋谷線へと入って行く。
「不倫旅行って言ったら熱海、と言いたいとこだが予約が取れなかった。湯河原で我慢してくれ」
「だから、ゆがわらってどこっ」
苛立ちながらもう一度呟く。
「神奈川だ。それならいいだろ?」
前方に目をやって、ゆっくりと後方へと流れていく六本木ヒルズを眺めていた紅美子だったが、やがて溜息をついた。
「……、……。……やっぱり、無理。……引き返して」
「何故?」
「明日、徹が東京に来る……。あんたも聞いてたでしょ?」
紅美子は懇願する悔しみに耐え、井上を向いて言った。「迎えに行くって約束してる……、お願い」
「そうか。……そうだったな」
だがそう言った井上がアクセルを更に踏んだ。直線が多い渋谷線を一気に駆け抜けていく。
「ねえっ……。聞いてる?」
「聞いてる」
「引き返して」
「……」
「ねえっ、てばっ!」
紅美子が声を荒らげると、井上は前方を見やったまま、
「徹くんが明日君と会うっていうから、僕は仕事を前倒しにして今日帰ってくることにしたんだ。徹くんより先に君に会うためにね」
「もう会ってるでしょ? 東京でも……」
紅美子は言いかけてやめた。
「東京でも、何?」
「……」
井上が更にスピードを上げていく。
「僕は君が欲しいって言ったろ?」
「……さんっざん聞いた」
「徹くんは君が迎えに来なかったら、何時間後くらいに捜索願を出すんだ?」
「ほんっとにやめて……。冗談じゃすまない」
本当にやりかねない徹が可笑しかったのか、井上は髭を歪めて一息だけ呆れた笑いを浮かべると、すぐに真顔に戻し、
「……。……徹くんは明日何時にどこに来る?」
「……十一時。浅草」
「充分だ」
渋谷線は陽が沈み始めた富士山へ向かってずっと伸びていた。「十時前には帰す。徹くん好みの服に着替えて、徹くん好みの化粧をしてやってからでも、間に合うだろ。……それなら」
最後の「それなら」で井上の語尾が少し濁った。初めて井上の不機嫌さを感じ取った紅美子は怯むあまり、
「え、うん……」
思わずそう返事をしていた。
「……じゃ、徹くんにも家にも連絡入れたらどうだ。今日は帰らない、って」
「……」
「……早くしろ」
紅美子は膝の上のバッグから携帯を取り出した。横目で井上を伺う。西日の眩しさに目を細めている表情は、やはり怒っているように見えた。
『発表会おわった?』
メッセージを送ってからコンソールパネルの時計を見た。まだ続いているかもしれない。するとメッセージがすぐに既読に変わって、
『まだつづいてる。時間のびてる』
と返ってきた。
『ちょっと(笑)つづいてるのにメッセ返してたらダメでしょ?』
思わず顔が綻んだが、隣の井上の表情を見てすぐにもとに戻した。
『はやく終ったら今日東京に行こうと思ってたのに』
号泣のスタンプが付されてまた笑みが漏れた。しかし同時に胸が痛み始める。
『明日でいいよ。何日か徹夜したんでしょ?ちゃんと寝て。・・・きょう光本さんとのみに行く。たぶんおそくなる』
『そっか。りょうかい』
『あした浅草迎えにいくから』
『うん』続けて、『はやく会いたい』
徹の返信に、更に胸が槍が突き刺ってくる。井上に見られないように、
『すきって言って欲しい?』
何とか痛みを和らげようとした。
『うん』
『明日直接言ってあげる』
『ひどい』
また号泣のスタンプが付されるとすぐに、『やばい。あんまり携帯いじってると』
『そっか、じゃ、あしたね』