3.広がる沙漠-11
「あるにはあるけど、貧乏な家の子供だからね。そんなスゴいのは食べたことない。スーパーで売ってるような、どこか外国で獲れた蒲焼きばっかり。しかも、よほど特別な理由がなきゃ出てこない」
「でも、うなぎが好きなんて粋じゃないか。僕らみたいな田舎者の口からはなかなか出てこない」
「……どこ出身なの?」
「山陰の山奥の山猿さ。つまり山ばっかりだ。すごいぞ、子供の頃は民放は二局しか映らなかった」
「確かに田舎もんだね。カッコつけてるから、大きな街の金持ちの子かと思ってた」
「育ちがいい金持ちの子供は、僕みたいにヒネクレない。もっと素直だ」井上はネギを口に放り込んで、「ものすごい貧乏というわけじゃないが、裕福でもなかった。ごくごく普通の家庭だったな。父親も母親は適度に厳しくて、適度にだらしなかった。特筆するような家庭ではないね」
井上は顔を顰めて喉を通し、
「小学校はクラスで九人しかいなかった。六年間ずっと同じメンツだ。今はもう廃校になってる。中学は自転車で片道一時間くらいかかった。山道だから上り下りが辛かった。高校はとても行ける距離にないから、親に頼んで松江に出た。工場で働いてた兄貴の家から通った。大学は大阪だ」
と話し続けた。
「どうしたの、ヒロミちゃん? 急に自分語り」
だが井上は構わずに話し続ける。
「僕らの就職活動ってのは、まさに『バブル』ってやつだ。大学と企業が密着しててね、黙ってても企業の方からリクルートされる。採用担当の金で飲み食いしたり、研修と称して旅行に連れてってもらった奴もいた。僕もソデを引いてくれた証券会社に入った。給料が高そうだったしね」
「……ふーん。最初からバドゥルじゃなかったんだ」
紅美子は烏龍茶を啜った。
「僕らの大学時代なんて、バドゥル・インターナショナルなんて影も形もない」井上は肩を揺すって軽く笑い、「中東なんて全体的に戦争ばっかりやってるアブないところ、くらいのイメージしかなかったよ。……で、入社した瞬間にバブルがハジケた。なるべく偏差値の高い大学に入れば大企業に就職できていい仕事に就ける、ってことで受験競争を戦ってきたのに、いよいよ甘い汁を吸える、って思ったところで『なかったこと』にされた」
「でもいいじゃん。就職できたんだから。そのあとの人たちは就職すらできなかった、とか聞くけど?」
「ああ。だから新入社員は殆ど入ってこない。いつまでたっても下っ端のままだ。上も同期もリストラされていく。誰も教えてくれないし、誰も教えることができない。それでもクビにならないように頑張ってたら、会社自体がなくなった」
「ねぇ」紅美子はコップを置いて、「この話、いつになったら、変態男ヒロミが誕生したきっかけの話になるの?」
紅美子の問いかけに井上は暫く髭を指で触りながら考えてから、
「君と会った時からじゃないか?」
と言った。
「は? 私のせいにしないで」
「女に手を出したことはあるし、モノにしたこともある」紅美子の方を見ずに刺し身に手を伸ばし、「しかしここまで無茶をしてるのは初めてだと思う」
「無茶だって思うんだったら、やめてよ」
井上は刺し身を箸に取ったが、口には運ばず醤油皿に置き、紅美子の方を見た。
「……うなぎは美味しい、ってムキになってるのは、すごく可愛かった」
唐突に「可愛い」などと言われ、既に箸を置いてお茶を飲んだり、意味もなくスカートの裾を払ったりして話をしていた紅美子の動きが止まった。
「……」
胸が甘く疼く。
「そうして照れてるのも可愛い。……更に君にハマりそうだ」
「……やめて。どうせ、そんなこと言ってたくさん引っ掛けてるんでしょうし」
揶揄を向ける紅美子だったが、髪を垂らして俯き、正面の井上を見ることができなかった。顔を上げたら、照れて緩んでいるの顔を知られてしまう。
「早く食べてくれ」
井上の低い声が通り良く届く。「また欲しくなってきた」
「……朝までかかって食べる」
井上が立ち上がる気配。近づいてくる。紅美子は顔を上げることも、逃げ出すこともできなかった。すぐ傍に立たれて顔を伏せたまま身構える。だが井上は紅美子には触れてこず、カタッ、と座卓に何かを置いた。
紅美子の視界に映ったのは鍵だった。
「何? コレ」
「プレゼント。特殊キーだから合鍵を作るのは時間がかかった。場所は神楽坂だ。住所は後で携帯に送っておく」
「どういう意味?」
「さすがに君に会いたくなって、毎回丸の内のホテルや温泉旅館を取っていたら、いつか僕は破産する」
頭上から笑い声が聞こえる。「日本出張のときに一人で泊まるために買ったものだからあまり広くない。別に僕がドバイに行ってる間に勝手に入ってもらっても構わない。無くなって困るものは置いてない」
「……こんなとこ行って、十人位の女と鉢合わせするのイヤなんだけど」
「人に渡す度に鍵を変えてる。鍵穴ごと」もう一度笑い声が聞こえた。「だから、あの部屋は僕か君しか開けれない」