2.湿りの海-3
「それはないね」
即答して嘲笑に髭が歪む。「もし君が警察に言っていたら、今ごろ変わり者のフィアンセが僕を殺しに来てる」
「こんなの、徹に言うわけないじゃない」
また栃木で自分を信じている恋人の顔が浮かんできそうになるのを努めて打ち消した。
「君が言わなくとも、僕が警察に言う。犯されたって言ってる女は、自分から酒を飲みについてきて、無理矢理飲まされたわけでもなく自分で飲んで酔っぱらって、勢いで僕とセックスをした、ってね」
「……!」
「ついでに、君もちゃんと、イッたって伝えてやるよ。……徹くんにバレずに裁判を終わらせられるかな? 君の親にも相手の親にも言わなきゃならないだろうしね――」
そこまで言われて紅美子は空いた手で井上を殴ろうとしたが、予想していたかのように肩から手を離した井上にその手首も掴まれた。肘を突き出すように片腕一本を胸元に押し付けられ、更に正面から身を密着されると、掴んだ手首を離されても容易に上躯の身動きが取れなくなる。
「変態野郎っ!」
直情的に大声を出そうと息を吸い込んだ所で、今度は手のひらで口を塞がれた。途端に紅美子の脳裏に、昨晩この男に体の中で放出された時の記憶が蘇り、手の中でくぐもった悲声を放ってしまう。
「短絡的な女だ。……今ここで騒ぎを起こしても同じだ」
井上の瞳の炎が更に勢いを増している。「ここで僕が捕まっても、同じことを言うってことが何故わからない?」
紅美子は井上の言葉に声を呑み込んだ。
「僕は呼ばれてここに来たんだ。君から着信があったからね。何故僕と君が知り合ってるかは……、以下同文だな」
手のひらに顔の半分を隠されて、怨目が更に強調されている紅美子の貌をもろともせず、「君に訴えられて僕は捕まるだろう。でも、徹くんが昨日の事実を知っても、その先、君たちはやっていける?」
沈黙を置いて、ゆっくりと井上は紅美子の口から手を離した。紅美子は井上に対する狂ってしまいそうな憤怒に、睨みつけながらも肩が動くほどに呼吸を荒らげていた。
「徹は……、徹とは、そんなのでどうにかなんかならない」
「『そんなの』で済むなら、そうしたらいい、って言ってるじゃないか。……そもそも、電話をしてきたのは、君のほうが僕に用があるからだろ?」
紅美子は睨んだまま暫く押し黙り、黙ってる間体を壁に押さえつけられられる屈辱に耐えつつ、決意したようにゆっくりと吐き捨てた。
「指輪、返して」
昨日のホテルに忘れ物で届いていないか電話をした。ホテルの人間に井上の愛人と思われようが構わなかった。だが、井上に連れ込まれた部屋の番号は見ていなかったので名前を出して問い合わせるも、拾得されていなかった。念を押したがスマートな受け答えで、無い、と繰り返された。ということは、犯人は一人しかいない。
「……そんなことか」
「返して」
井上は紅美子の睨み顔の中に、切羽詰まった困窮を読み解き、突然さっきまで口を塞いでいた片手を紅美子の腰に添えた。ウエストの絞られたベストとタイトスカートの丸みを撫で下ろしてくる。紅美子は短い悲鳴を上げて身を捩ったが、強く壁に押し付けられて逃れきることができない。
「……くっ、やめろ……」
「大声出さないのか?」
制服のタイトスカートの裾が掴まれる。悪夢が蘇り始めた紅美子の脚が小刻みに震えた。紅美子が声を上げない、上げることができないと知ると、井上は無遠慮にタイトスカートの中に手を入れて、ストッキングに包まれた太ももを撫でまわしてくる。
「そんな大事な物なら、ちゃんと盗まれないようにしとけよ」
「やめろっ、変態っ……」
「確かに、会社の女子トイレでこんなことするのは、変態だな」
お互いに、と井上が最後に省略した言葉が聞こえてきた。
「一緒にするなっ」
「だから短絡的になってどうする? 今の状況を誰かが見たら、君だけをそう思わないなんてことがあるか? ……大声を出すタイミングも逃がしたしな?」
動く井上の手を、脚をピッタリ閉じ合わせることで防ごうとしたが、ストッキングの滑りを活かしていとも簡単に内ももにまで侵入された。紅美子はタイトスカートの前を捲くる井上の腕を両手で抑えた。携帯は手放さなかったが、ライターとシガレットケースは床に落ちて大きな音を立てた。
「最低っ……」
「その最低な男に触られてるんだ」顔を寄せて耳元で囁かれる。「……大事な指輪なんだろ? じっとしてろ」
そう言われて手が内ももを上に向かって遡ってくる。携帯を持ったままでは力が入らないし、そもそも紅美子の力ではどれだけ強く押さえつけても、強引に突き進んでくる力を抑えきれるものでもなかった。
「そんなに爪を立てるな。痛いじゃないか」
「……やめろ……」
紅美子の声が幾分弱まると、嗜虐の表情でじっと見つめてくる。
「昨日の君もよかったが、制服姿もなかなかいいね。コーヒーを持ってきた時に一目見て欲しいと思ったよ」
「変態野郎……、キモい……。……、……、……はっ、く……!!」