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爛れる月面
【寝とり/寝取られ 官能小説】

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2.湿りの海-2

「本気にまでさせるんなら責任取れよ、って言ってるだけ」
 早田は暫く黙った。気軽に声を掛けて通じてしまった責任を取りたくない沈黙ではなかった。早田は暫く後に息をついて、
「分かったよ。長谷に迷惑はかけない。……悪ぃ、もうすぐ商談なんだ」
 と言った。
「連絡先、送ってね」
「ああ。商談入る前に送っておくよ。じゃ」
 切れた電話をバッグにしまわずに手に持ったまま歩いていると、すぐに早田からメッセージが来着した。電話番号しか書いておらず、その他の言葉はなかった。忙しそうなのに手間取らせて悪いことをした、と少し申し訳ない気持ちになりながら、紅美子は足を停めてその電話番号を暫く眺めた。少し先にコンビニがある。そこへ早足で向かい、シガレットケースからタバコを取り出して火を点け、咥えたまま煙をゆっくりと吐き出して、顔前に掲げた画面に映っている電話番号へ発信した。呼び出し音を聞きつつ、何てことはない、と何度心の中で自分を諌めても鼓動は早くなった。ふとコンビニのガラスを見ると、険しい顔をしている自分がいた。呼び出し音が途切れる。何かを言おうと唇を開くと、留守番電話の声が流れてきて、紅美子は電話を切った。
 予想通り、今日も伝票は束となってトレイに置かれていた。これだけではない、恐らく午後にはもう一束増えるだろう。ざっと眺めて優先順位を考え、念の為経理にその順番でよいか確認すると、あとはひたすら入力していくだけだった。単に紙伝票をシステムに入力していくだけなら退屈な作業だが、紙伝票を起こす全員が正しく記述しているとは限らず、システムに入力する際には紅美子たちがそれをチェックするという役割もいつのまにか課せられていた。なので紅美子は伝票の確認とシステム入力に集中した。普段は紗友美と雑談したりして、適度に脳の休憩を取るのだが、今日はその相手がいないし、今日に限っては必要ない。昼休みは食事を取らず、自席に浅く腰掛けて背もたれに身を預けながら腕を組み目を閉じていた。その険しい顔に誰も声を掛けてくる者はいなかったが、眠っているわけではなく、思考をストップしているだけだった。気がつくとトレイに新たな束が置かれており、それは紅美子の予想していた量だったが、午前中の効率を考えると充分今日中に終わらせられる量だと思った。もうすぐ昼休みが明ける。紗友美はやはり来るつもりはないらしい。
 経理に午後の分を確認して自席に戻り、職務を再開しようとしたところで突然振動音がした。マウスの隣に置いていた携帯が震えている。折り返しのアイコンとともに、早田に聞いた番号が表示されていた。紅美子は携帯を手に取ったが出ることはできなかった。部屋の中に一人だが、誰が突然入ってくるかわからない。紅美子はシガレットケースと携帯を手に取って部屋を出た。タバコが無性に吸いたかった。屋上へ向かおうと廊下を歩き始めると携帯の振動が止まった。
 死角から現れた何者かに突然行く手を塞がれた。目の前に立っている者の顔を見て驚愕のあまり叫び声も出なかった。
「え……、あ……」
 井上は昨日と変わらぬ薄笑みを浮かべて紅美子と目を合わせると、携帯を持っていた手首と肩を掴んでグイッと押しやってくる。なぜここにあの男がいる? 紅美子の理解を超えた状況で、井上に押されるままに連れ込まれた先は女子トイレだった。仕事中に履き替えているサンダルでは音もしない。そのまま個室まで導かれて、和式の便器を挟むように壁に押し付けられた。
「……君の方から連絡してくれて嬉しいね」
 顔を至近距離まで近づけられて瞳を覗き込まれる。そこにはあの姦虐の炎が灯っていた。唾液を飲み込み、どう見てもこの状況が現実で、目の前にいるのがあの男だとはっきり認識すると、
「何なの、あんた……。頭おかしいんじゃないの?」
 とその目を睨み返しつつ、声量を落として言った。
「冷たいね。こうやって会いに来てやったのに。会いたかったんだろ?」
「……誰がっ」
 先に連絡を取ろうとしたのは紅美子のほうだったが、もちろん会いたかったわけではない。むしろ会いたくはない。「今度こそ、犯罪ね。大声出したら、あんた終わりでしょ?」
「確かに、今日は許可を得て入ってないね」不敵に笑う顔が憎々しかった。「セキュリティが心配な会社だな。不法侵入し放題じゃないか」
「この手、離してくれなきゃ人呼ぶけど?」
 紅美子はタイル壁に押し付けられている自分の手首と肩に目線を向けながら言った。
「呼んだらいいんじゃないか? 僕が連れて行かれたら、何故ここに来たか洗いざらいワケを話すから」
「……なんで来たってのよ?」
 大声を出して井上を破滅させるなら今だ。これでこの鼻持ちならない男を、朝から襲う鬱屈の元凶を葬り去ることができる。この男が怯え、泣いて許しを請わせ、昨日の一件を悔いさせる、そんな気晴らしまで求めている場合ではない。だが紅美子は井上を会話を続けていた。――続けなければならない理由があった。
「決まってるだろ? 昨日ヤラせてくれた女に呼び出されたんだ」
 その言葉に、憤怒のあまり刺すような胸の痛みを感じながら、
「ふざけんな。レイプの間違いでしょ?」
 井上を睨みつける。
「そう思うのかい?」目を細めて紅美子の瞳を更に鋭く見つめてきた。「……本当に? 君自身もね」
「……レイプよ。あんなの」
 だが紅美子は胸の痛みの傷口を更に抉ってくる井上の言葉に切り崩されそうになるのを必死にこらえていた。あれはレイプだ。そうに決まってる。
「じゃ、訴えりゃいい。大声出そうが、強姦罪で訴えようが自由にしたらいいさ」
「……もう昨日のうちに警察に言った」


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