投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

隣人
【その他 官能小説】

隣人の最初へ 隣人 9 隣人 11 隣人の最後へ

その(6)-1

 ゴミ集積所に結衣の姿はなかった。
(何かあったのはまちがいない……)
何があったのか。……
 電車の中でも仕事をしながらもそのことが頭を離れなかった。
『しばらく来ないで……』
そして、叩く音、悲鳴、鳴き声。
(ほんとに暴力をふるわれたのか……)
 メールをしてみようかと何度も考え、出来なかった。もし田之倉に見られたら、結衣がどんな目に遭うか。

 この日ほど時間の経過が遅いと感じたことはなかった。処理する仕事はいつも山のようにあり、それをこなしながらも気が急いて、結衣の泣いている顔が彼を呼ぶようにひっきりなしに映じた。
 ふだんなら一、二時間残業するのだが、その日は定時で帰路についた。

 最寄駅に着いたのは六時過ぎで、思いのほか明るい上に人通りが多く、マンションでも出入りが多いように思えて居酒屋に入った。足音を忍ばせてインターホンを押したのは八時過ぎである。

 間があって、結衣が応じた。心なしか沈んだ声だった。
「小山内です」
すぐに返事がなく、
「ちょっと、待ってください」
ドアが開くまで時間がかかって気が気ではなかった。

「奥さん……」
「しばらく、来ないでと……」
結衣は大きなマスクを着けていた。顔のほとんどが被われて目だけが覗いている。
「とにかく、入って」
小山内は素早く身を入れた。


「何かあったんですか?」
椅子にかけたままうなだれる結衣に小山内は極力やさしく言った。明らかにいつもの彼女ではない。
「あのメールが気になって。……もしかしたらお父さんの具合でも悪いんですか?」
「いえ……」
伏せていた結衣の目が小山内に向けられ、首を横に振った。
「ちがうんです。おかげさまで父は順調で……」
「それじゃ……」と言いかけて、
「そのマスクは?」
「これは……」
結衣は手で顔を被い、しばらくして観念したように溜息をついた。

「主人に……。唇が切れて、腫れてしまって……だからあのようなメールを……」
「なんということを……。いったい、なぜ」
「小山内さん。誰かに見られたみたいなんです」
「見られたって、何を?」
「旅行です」
「まさか……」
「新宿駅で男と歩いていたって、知り合いに言われたって……」
「駅?……」
そんなはずはない。記憶を辿った。
(帰りだ!)
はっとしたのは特急を降りてから改札まで彼女と肩を寄せて歩いたことを思い出したからだった。
 それまで一切接触をしなかったのに、ほっとしたのか、結衣が駆け寄ってきて甘えるように体をぶつけてきた。旅行バッグを提げ、服装にしても傍から見れば旅行帰りのカップルに見えるだろう。
 緊張感が薄れていた。……
(まずいな……)

「あなたの名前は言ってません。でも……」
「……」
小山内は結衣の瞳を見詰めた。
(名前は言っていない?……)
「すると、旅行に行ったことは認めたんですか」
「ええ。……主人の見幕が怖くて、嘘をつける雰囲気じゃなかったんです」
結衣は頭を抱えた。
「もう、離婚でしょうね……」

 離婚……。ふっと仄明るさを見た。
 結衣が離婚すればこれからは自由に会えることになる。願ってもないことではないか。折を見て亜希子と別れるようにもっていく。
 ところがそんな思惑が脆くも瓦解した。
「心配なのは、その知り合いが主人の親友で、あなたの後を付けたって……」
「え?……」
小山内は暗い淵に落ち込んでいく感覚に襲われた。
 あの日、改札を出て、目配せで結衣と別れ、時間をつぶして帰ったのだが……。そんなことはどうでもいい。後を付けたということはマンションを確認したということだ。当然、部屋がわかれば名前も知られたことになる。

 小山内は混乱していた。
「ぼくのことがご主人に知られた?」
「わからないけど……。あたし、どうしたらいいか、わからない……」
マスク越しにすすり泣く結衣を見つめながら、小山内はかける言葉がなかった。自分だってどうしたらいいか、まったく手立ても浮かばない。
(これは、大変なことになった……)
そのことだけが右往左往していた。
「申し訳ないわ。あたしが誘ったばかりに、こんなことに……」

「とにかく、しばらくは会わないで……」
それからどうするか……。
「ご主人は、もう相手がぼくだと知ってるのかな」
小山内はふたたび同じ事を訊いた。
「さあ……あれ以来追及されていないけど、おそらく、もう……」

 結衣を元気づけたいが余裕はなかった。
言葉もないまま部屋を出て、いったんマンションの敷地を出て煙草を喫った。
(偶然だったんだ……)
駅で会ったのは偶然だった。もし田之倉に問い詰められたらそう言い張るしかあるまい。(俺は出張していた)
どこへ?−−
警察ではないのだ。そこまで調べはしないだろう。
(どうしていいかわからない……)
小山内は何本も煙草を喫い続けて周辺を歩き回った。  


隣人の最初へ 隣人 9 隣人 11 隣人の最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前