不穏-4
「さっきゼミのことを話したと思いますが、ある日、二人きりで帰ったときに、そう、あのときは二人きりになることを望んだのでしょう。ゼミの最終日のことでした……」
遠くを見つめ、うっとりした顔で続ける。
「夕日がとても奇麗な午後でした。進藤さんが僕を待ち伏せして……」
ここは黙って聞くしかない。
「先に帰ったと思った進藤さんがいきなり目の前に現れたのです。あのときは本当にびっくりしました。『どうしたのです?』と聞きましたが何も答えず、うつむいて顔を赤くしただけでした。何となく察しがついた僕はそっと彼女をいざない、木の葉舞う並木道をしばらく歩きました。奥ゆかしい彼女は僕の三歩うしろを歩きます。進藤さんは日本女性の鏡ですから。僕が振り返ると恥ずかしそうに頬を染めました」
横を見ると石橋は目を閉じていた。陶酔したような表情であった。唐突に話が止まったので、先を促そうかと思ったが面倒なのでやめた。
しかしいつまで待っても目を閉じたままなので、しかたなく「それで?」と聞いてみた。石橋は目を見開き「ん、何が?」と、思った通りの返事が返ってきたので「なんか、振り返ったところからだけど」と素っ気なく答えると、「そう、顔を赤くした彼女は……」と始めた。どうやら回路がつながったらしい。
「進藤さんは、それは美しい天女のような両手を差し出しました。白い封筒を僕に差し出すではありませんか。白魚のような指先は恥じらうように震えていました。僕は戸惑いました。『中にわたしの思いが……』と彼女は消え入るような声でそう言いました。僕は諭すように『付き合っている人がいるのですから、だめでしょう?』と言うと、彼女は困ったような表情を浮かべました」
またしても吹き出しそうになった。登場人物が入れ替わっていることは察しがついたが、それでも驚きを隠せない。あんぐりと口を開いて石橋の話を聞いていていた。
「『人妻なのだから、こんなことはしないほうがいい』僕はきっぱりと言いました」
完全に妄想の世界に入り込んでいるようだ。
「ずいぶん面白そうな話だね。で?」
話をやめた石橋に催促する。
「ん、なにが?」と言う石橋のトロンとした目を覗き込んで「だから、続きはどうなったの?」と、人差し指でテーブルをポンポンと叩いた。
石橋は鷹揚に頷いてから「だから結論から言えば、浮気ってことになってしまうのだろうなぁ」――と言ったのである。
「どうしてそんな話になるんだい?」
前後に揺れている石橋を見て、笑いそうになった。
「本気なのかもしれない……」
「何が? 浮気?」
「はい」と勢いよく返事をした反動で石橋の首がカクンと後ろに倒れた。義雄は慌てて手を添えるが、今度はカクンと前に倒れる。
「石橋君、もうそろそろ出ようか?」
「だめ、もうちょっと話がしたい。進藤さんのご主人と」
「あはは、分かったよ、じゃあもう少し」
義雄も酔ったせいで顔が熱い。
「――しかたなかったんだ」
「何が?」
「あのとき、すぐに振っちゃったんだ……」
寂しげな声でそう言った。
要するに大学生の頃、石橋は奈津子に好意を寄せ、ゼミの帰りに待ち伏せして、ラブレターを手渡したのだろう。その甲斐もなく、その場で奈津子にふられた。純情な石橋の悩みに悩んだ末の行動だったに違いない。現在の石橋にどのような影響をもたらしたのだろうか。責任を感じないでもない。ほろ苦い青春の一ページを垣間見た気がした。
「本当はいけないことをしたと思っているんだ……。でも、すごいんだ、ヤツ」
「そんなことはないと思うよ。え、ヤツって?」
「ガンガン……」
また意味不明のことを言っている。
「顔……あんな……」
そう言って、石橋はテーブルにゴンと頭をぶつけ、「地下……」――と寝言のようにつぶやいた。
「顔ってどういう意味? チカ?」
「タクラ……すご……」
「ええ! タクラって、まさか部長のこと? いったい何のこと言っているの?」
とうとう石橋が動かなくなると、何だか胃の中に鉛のような異物が入り込んだような気がした。無意識におなかを押えていた。