進展-2
少し早めにきたので時間つぶしにショーウィンドウを見て歩く。視線は展示してあるものに向いているが、商品を認識しているわけではない。
後ろめたい気持ちと心浮き立つ気持ちとが混在している。会っている間は田倉の話しを聞いている時間がほとんどだ。話題が豊富で飽きることがない。そしていつもドキドキしている自分がいる。若くて綺麗、清楚で優しいと褒めてくれる。少々恥ずかしい思いで聞いているが、女性としてとてもうれしい。
ふと気付くと田倉のことを考えている。逞しい体や大きな手を思い出し、強い性欲を感じることさえある。そんなときはさり気なく夫に誘われるように仕向ける。それはかつてないことであった。今までにない官能を感じ、あまりの濡れ方に夫が密かに驚いていたのも知っている。そんな朝は夫の顔をまともに見ることができない。
人妻である身の自分に好意を寄せているのだろうか。単なるお世辞や、社交辞令に過ぎないのだろうか。でも、こうして何度も食事に誘ってくれるから……。
偶然にも町内会の役員の仕事が回ってきた年だった。いやだと思っていた役回りがカムフラージュになっているのだ。会合で年配の会長さんの話が長くて帰りが遅くなるときがあるし、夫は一度も町内会に携わったことがないので気付いていない。娘は無関心なので問題はない。浮気する妻は毎日こんなことを考え、さまざまな嘘を重ねていくのだろうと思うとゾッとした。家族が会合先に連絡を取れば、たちまち嘘だと分かってしまうような、大変まずい状況であることは間違いない。このまま田倉と会い続けることは不可能だと思っている。
待ち合わせ場所に現れた田倉に小さく手を振った。
「少し歩きますが、この先にわりといいイタリア料理の店があります」
毎回別の雰囲気のよいレストランに連れて行ってくれる。
「あの、わたし、そんな……」
「一度入っただけなのですが、これがなかなか旨いのですよ」
付き合ってみて分かったのだが田倉はかなり強引なところがある。相手の意見を聞かずに我を通すわけでは決してないが、いわゆる押しが強いのだ。夫とは対照的だ。これが仕事でプラスに作用しているのだろうと思う。
奈津子は「でも……」とつぶやいてから、「あっ」と声をあげた。
田倉が振り向くと「あれにしませんか」と奈津子はハンバーガーショップを指差した。驚いた顔の後「そうですね。それもいいですね」と白い歯を見せる。
若者向けのきらびやかな店が建ち並ぶ裏には、海の見える広大な公園が広がっている。ここは有名なデートスポットでもある。昼夜を問わずアベックが多い。
「行きましょう」
ハンバーガーの入った袋を抱えた田倉に夕暮れの公園に誘われる。そぞろ歩きの人が少なくない。空いているベンチを探すのも一苦労だった。
袋の中に手を入れて「まだ温かい。よかった」と田倉は顔をほころばせた。巨大なハンバーガーを頬張って「旨い、旨い」と健啖ぶりを発揮する。
会社のことを話題にすることはあるが夫のことは出てこない。二人の唯一の共通点である揺るがしようのない事実は暗黙のタブーであった。
空が暗くなっていくごと、街は光を増してゆく。
「いいですね、こうして公園からキラキラする町並みを眺めるのも」
「都会でも海の上の夜空には、こんなに星が見えるのですね。知らなかったわ」
「目を凝らして見ると本当にたくさん見えますね」
奈津子は夜空を見上げ「だから若い人たちが恋人同士で夜の公園に来るのですね」とつぶやいた。
「ええ、夜の雰囲気と街の明かり、仄かな潮の香りが気分を高揚させるのでしょう。あなたは?」
「田倉さんといると時間を忘れてしまいそう」
少しためらってから、そう答え、まばゆいばかりの光に目を細める。
「でも、このまま続けるわけには……」
奈津子はそっと吐息を漏らした。
「分かっています」
田倉は頷いてから、しっかりとした声で言った。自分自身に納得させているのかも知れない。
「分かっていますが、どうしようもないのです」
奈津子は硬く目を瞑った。激しい動悸に襲われたからだ。お互いの腕が触れた。
「あなたのことを考えると……」「わたしも……」
二人の声が重なった。
「……でも、そんなこと、あり得ないわ」
田倉から視線を外す。
「そうでしょうか」
弾けるように顔をあげると、真剣な表情の田倉の顔が目の前にあった。
「二人っきりに、なれるところに行きませんか」
田倉はうろたえる奈津子の腕をつかんだ。ジェットコースターに乗ったときのような衝撃を再び味わった。
ガクンガクンと揺れながら、てっぺんに上がるまでに気が動転して思わず田倉のふとももに触れてしまった。ジェットコースターが下降したとたん、悲鳴を飲み込んでしまうほどの恐怖で身が竦んだ。二人の体が密着しているのは分っていた。ずっと腰を抱かれていたのも分っていたが、気にする余裕などなかった。
唐突に、田倉のポケットに入っていた暖かい缶コーヒーに触れたのを思い出した。動転したままそれを握りしめたのだ。恐怖の合間に一瞬、いつ買ったのだろうかと頭をよぎったことも思い出した。あの堅さは間違いなく缶コーヒー……。
肩を抱かれ夜の公園を引きずられるように歩き、握ったあれが何だったのかを奈津子はがくぜんと気付いた。