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栗花晩景
【その他 官能小説】

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山河独歩-6

 梅雨明けも間近になった七月の末、私は炎天下の県営球場にいた。母校、S高校が予選を勝ち進み、創部以来初のベスト8に名乗りを上げたのである。毎年たいてい二、三回戦で姿を消している弱小野球部である。地方版のスポーツ欄はシード校を倒した殊勲を大きく取り上げていた。
 だがいかに快進撃とはいえ私はさほど野球に関心はない。わざわざ球場まで足を運んだのは、居てもたってもいられず勇躍駆けつけたというわけではない。
(埃……)
日常積もり積もって膠着した厄介な心の埃のせいだったかもしれない。

 そこには自分が拘ってきたあらゆることの後悔、為し得なかった夢、折れた希望、それらが塵のようにこびりついていた。高校という語感がとても新鮮に感じた。青春の只中にいた頃がやるせないほど懐かしかった。

 応援席から少し離れたところに座って間もなく、太った中年の女に声をかけられた。
「磯崎くん?でしょう?しばらくねえ」
相手が誰なのか、彼女が名乗るまで判らなかった。いや、旧姓を告げられても昔の面影を探して、ようやく大村真理子だと認識した。
「わからなかったよ」
「変わっちゃったから驚いたでしょ。醜いオバサンよ」
はち切れそうな笑顔の中で顎のたるみが揺れた。
「何年ぶりかな」
「四十年近いわよ。四十年」
真理子は汗を拭きながら腰を下して息をついた。
「応援団の近くに同期が何人かいるわよ」
誘われたが断った。

「磯崎くん、いまどこに住んでるの?」
当時と同じ市内にいると答えると、自分は隣の市に引っ越して、三十過ぎの息子が二人いると話した。
「結婚しないで好きなことしてるから困っちゃう。だからまだお祖母ちゃんじゃないの。お子さんは?」
「うん、一人息子。孫も一人」
 昔の面影は跡形もないが明るさは変わらず彼女を包んでいる。
(古賀と小暮が殴り合いのケンカをしたっけ……)

 話の中で市役所に勤めていることを知り、弥生のことを訊ねてみた。
「来栖さん?知ってるわよ。福祉課の課長補佐をしてる。うちでは女性で初めてなのよ。すごい勉強家。知り合いなの?」
「大学が一緒だったんだ」
「へえ、そうなの。すごいわよ、彼女。男社会で頑張ってるんだもの。役所って体質旧いのよ。いろいろ厭な思いもしてると思うわ。私にはとても無理」
「結婚はしてないのかな」
「うん、してないみたい。あれだけ魅力的なのに。……ひょっとして磯崎くん、好きだったりして?」
「そんなんじゃないよ……」

 否定しながら胸に熱いものを感じていた。それは肌を合わせて互いの鼓動を聴いた思い出が甦っただけでなく、信念を貫いた弥生への敬意であり、さらに凛とした人生観に対しての感動でもあった。
(彼女は自分の決めた道を幸せに生きているんだ……)
これからも……。

「大村さんも野球に興味があるんだ」
「何言ってるの。私ブラバンよ。毎年夏の大会は応援に行ってたんだから。思い入れがあるわよ。今日もOBが何人か来てるわよ」
「古賀は?」
「古賀くんは途中でやめちゃったようなものだから」
真理子は私に向き直って、
「そういえば、去年、古賀くん見かけたのよ」
大きく目を見開いた。
 駅前をトランペットケースを持って歩いていたという。
「まちがいなく古賀くん」
真理子はそう言って自分で頷いた。
「まだ楽器やってるのかな」
「そんな感じじゃないと思うわ」
やせ細って顔は青白く、頭はほぼ禿げあがっていて、
「真っすぐ前を向いて一直線に歩いてるの。ちょっと異常。とても話しかけられない雰囲気だった」
 駅前はだいぶ前に区画整理されて、古賀の家も移転したはずだ。現住所はわからない。

 グラウンドに目を向けてはいるが、私たちは話し続けた。
真理子はクラブのOB会を何度か開いているので多くの同期生の動向を知っていた。同窓会名簿も刊行されていて学校で購入できると教えてくれた。
「今度、同期会開きましょうよ」
「うん……いいね」

 思いつくまま記憶に残る顔を浮かべてみる。
古賀、小暮、中本、石山、西田、……細谷、そして美紗……。
 ふと誰もがみんな迸る精液の臭いを伴っている気がした。汗まみれの昂奮、脈打つ青い性の中にいた。一日一日、確実に伸びていく逞しい若木であった。
 もう思い出として抱きしめることしかできないのに、記憶とともに臭いが感じられる。あの青臭く熱い臭いが……。

 試合は優勝候補相手に善戦はしたものの、力の差は歴然としていた。どこからか、やっぱり駄目かと嘆息混じりの声が聞こえた。
「やっぱりN高強いね。いつかは甲子園、行きたいね」
 真理子は別れ際、今度何人かで集まろうと言った。連絡先を交換していると、応援席のほうから見覚えのある男が近寄ってきた。
「なんだ、ここにいたのか」
「うん。彼と会っちゃって。彼もS高よ。磯崎くん。知ってる?」
男は首をかしげて笑ったが、私は憶えていた。石山に殴られて土下座した男である。
 チアリーダーの女生徒が何人か泣きながら出口に向かい、第二試合の応援団が席を埋め始めていた。


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