山河独歩-2
切り抜きを見つけた日から家にじっとしていることが苦痛になり、休日に思いつくまま出かけるようになった。
この借家もそんな折りに偶然見つけて衝動的に住んでみたくなったものだ。近所で空き家だと聞き、役場を通じて所有者を捜すと他県にいて、問い合わせると、父親が一人で住んでいたが二年前に亡くなってからは家財を整理してそのままになっているという。古いとはいえ文化財の登録にはならないし、処分も考えているのだが、歴史的美観の理由で町からは任意の保存をすすめられているという。それならばと賃貸契約を申し入れたのだが、とても他人に貸せるような家ではないと断られてしまった。
古い木造家屋を見ると、住んだ経験がないにもかかわらず不思議と郷愁感にとらわれる。
生活の匂いの染み込んだ家に住んでみたい。私を揺り動かしたのはそれほど深い想いからではない。感傷もあっただろうし、逃避的感情も蠢いていたようにも思う。
何度か交渉した結果、了解を得ることができた。先方が根負けした格好である。いろいろと面倒なので賃貸契約はしないという条件で、水道、光熱費など経費だけを払ってもらえればいいという。その他、最低限の補修以外改装は行わない、明け渡しの要求には無条件で従うなど、何の異存もない話でまとまった。
私自身、実際に田舎暮らしの経験はない。生まれてからずっと東京近郊で生きてきた。交通の便は言うに及ばず、スーパーや量販店も揃った何の不自由もない環境で生活をしてきている。
初老の男が独りで暮らせるのか。すぐ音を上げるのではないか。私は自問しながらその可能性を否定しなかった。息子にも指摘され、旅行でもしてどこかの民宿にでも泊まって雰囲気を味わったらどうかと半ば揶揄されたものだ。
言われて反論しなかったのは確かにそんな程度の感覚もあったのは事実だし、保証人として一筆入れてもらう負い目もあった。
そんな経緯だったから気負うことはしなかった。永住するわけではないからマンションはそのままにして、気まぐれに行ったり来たりして過ごした。傍から見れば呑気な隠遁生活を送っていた。
私はこの年の春、定年を前に退職した。定年といっても同族会社である。身内ならあってないような規定で、いくつになっても勤めることは可能だった。社長となった長兄からは強く慰留された。
「いないと困るんだ。気持ちはわかるが……」
恵子が死んでから気力がなくなったと私が洩らしたことを言ったのだ。恵子の死から二年後に次兄も脳溢血でこの世を去っている。長兄には弟妹の不幸を悲しむ暇もなく会社の経営が重くのしかかっていたのである。八十歳を超えた義父は会長として名を連ねてはいたが、もう戦力とはなり得ない。
「忙しい時は手伝います。いつでも言ってください」」
私は決心を変えなかった。
結局退くことになった私に、長兄は念を押して臨時嘱託という立場を与えて私の決意を呑んだ。
第二の人生などと一息ついた思いはない。年金の受給まではまだ何年もある。とりあえずの生活費をどうするか。通帳を見て驚いた。家を買えるほどの預金があった。
(恵子……)
改めて彼女の存在を抱きしめた。
事故の賠償金、保険金に手をつけずに済む。
後ろめたい気持ちはあった。
住み始めて一年後に息子一家が真壁にやってきた。息子の後ろから孫を抱いて土間に足を踏み入れた優子の顔はいま思い出しても可笑しい。
すくんだ足元、目にはありありと不快さが見えていた。都会育ちの娘には異次元の世界にさえ映ったかもしれない。
柱や梁は煤け、板の間は真っ黒である。家の中にはカビと埃の入り混じったような古民家特有のにおいが満ちていた。
「古い家だねえ」
息子は物珍しそうに家のあちこちを見て回っていたが、彼にも抵抗はあったと思う。
優子は土間に立ち竦んだまま呆れたように視線を巡らせていた。彼女の気持ちとすれば一刻も早く退散したかったにちがいない。息子も妻の表情からそれは感じていたはずである。
しかし初めて筑波までやってきてあまり愛想のないこともできない。また、寿司やら仕出し料理を用意しておいたので多少の付き合いはしなければと思ったのだろう。息子はつい酒が過ぎてしまった。私が酒をすすめる度に優子は夫の横顔を睨みつけていたものだ。
私は意地悪くなって、
「明日休みなんだし、泊まっていけばいい。一度くらいいいだろう」
もう運転の出来る状態ではない。
「そうするしかないか……」
優子の恨みがましい目を受けて可笑しさを堪えながら追いうちをかけた。
「夏はムカデやゲジゲジが出てくるけど、この時期は心配ないと思うよ」
優子の頬に鳥肌が立った。
夜、夫を叱責する押し殺した声が畳を這ってきた。その時以来彼女はこの家に来ていない。
車のエンジンがかかった。
「おじいちゃんにさよならしてこよう」
「うん」
正樹が駆け込んでくる気配がした。