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栗花晩景
【その他 官能小説】

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山河独歩-1

 過ぎ去った時の流れの中に自分を置いて振り返ってみる。目覚めて思い出せない夢のように漠としていて輝いた自分がいなかった。それは歩んできた道が暗闇だったからではなく、後悔に埋め尽くされているからでもない。
 予行のできない人生である。満足で満たされるはずはない。悔いの数々は当然あるべきこととして甘んじて受けとめるものと思う。そうしなければ『老い』に向かって衰えてきた足元がなお、おぼつかなくなる。
 だが、そう考え、納得したつもりでも折りにふれ、心は揺らぐ。取り戻せない過去が不意に冷やかに迫ってくることもある。
 私は建てつけの悪くなった思い出の扉を開いては瞑想に耽った。


 裏庭の方から甲高い声が聞こえ、少しずつ足音が近づいてくる。
「パパ、カマキリ捕まえたよ」
弾んだ声は孫の正樹である。父親に感動の報告をしながら目を輝かせていることだろう。

「かわいそうだから逃がしてあげなさい」
顔をしかめた神経質な表情が浮かぶ。
「餌あげてちゃんと飼えばかわいそうじゃないよ」
「餌って何やるの」
「バッタだよ」
「バッタがかわいそうじゃないか」
「だって、餌あげないと死んじゃうよ」
「だからかわいそうだろう。逃がしてあげな。帰るよ」
「持っちゃだめ?」
「ママ怒るよ」
父親は息子の話に取り合わず、帰り支度を促している。
 私は二人のやり取りを酒を飲みながらほろ酔いの中で聞いていた。

 午後三時を回った頃、
「そろそろ行くかな。渋滞にかかっちゃうからね」
息子は先ほどそう言いながら、外へ遊びに行った正樹を呼びに出て行ったのである。
「泊まりたいんだけど、優子の悪阻がひどくてね」
申し訳なさそうに笑顔を作る息子に、私も笑って応えた。
「今度またゆっくり来ればいいよ」

 十月も半ばになり、西日も長くなった。
北の国から、高地から紅葉の情報が伝えられていたが、筑波山はまだ黄葉が滲むほどの色合いである。紅葉の盛りまで二週間ほどかかるだろうか。
「色づいた筑波山を見に来いよ」
私の誘いに息子は孫を連れてやってきたのだが、だいぶ早過ぎた。もっとも、息子にとって筑波山だの紅葉だのという興味はないのだろうと私は思っている。
 父親への義務というか、一人息子として年に一、二回はご機嫌伺いを兼ねて孫の顔を見せに行かなければと、親孝行のつもりでいるのだろう。

 私が、ここ、真壁の廃屋を借りたのは三年前、正樹がまだ一歳の頃のことだ。
真壁といえば弥生と訪れた忘れ難い思い出の町である。そのことだけを辿ったわけではないが、切ない感傷はあった。年齢を重ねるうちに若い頃の出来事がせせらぎのように胸に沁み入ってくることが多くなった。辛い思いよりも笑顔が浮かんでくる。弥生、晴香、美紗も、笑っている。それだけに胸が苦しくもなる。恵子を失ってから過去への回帰は頻繁になった。

 恵子は五年前に他界した。交通事故であった。五十三歳。我が妻ながら十歳は若く見えたと思う。身も心も活力で漲っていた。
 事故当時も、葬儀、納骨に至っても、なぜか涙が出なかった。代わりに、きな臭いような妙な胸の痛みがしばらく続いた。
 突然の崩落、そこに空いた底知れない空洞。気持ちを収めるには時間が必要だった。

 涙の堰が切れたのは一年ほど経ってからである。彼女が使っていた引き出しの奥に手帳を見つけた。中には何も書かれておらず、何枚かの切り抜きが挟んであった。おそらく女性週刊誌のものと思われた。
『エクスタシーを得るために』『男性の性感帯はここ』『夫との融合テクニック』……。
胸が詰まって思わず嗚咽した。切り抜きに涙が落ちた。
 変色したものもあれば比較的新しいものもある。どんな想いで切り抜いたのだろう。愛しさが溢れて止まなかった。

 亡くなる二年ほど前、私は若い娘と関係を持ったことがある。入社して半年ほどの事務員で、十九であった。
 社内の暑気払いの帰り、冗談半分で誘うと心得たように小声で応じた。カラオケでも行って飲み直す程度のつもりであった。中年男の自覚はあるから本気で下心を持ってはいなかった。それに社員である。
 それが、
加納麻紀……。かなりのしたたか者であった。

「その気で来たんじゃないんですかぁ」
カラオケを出て別れようとすると腕を絡めて甘い声を出す。
「燃えてきちゃったのに、ずるい」
まだ宵の口の往来である。知った顔がいないとも限らない。人込みを避けるように歩くうちにホテルに身を入れていた。
「秘密にしましょう、部長」
未成年とは思えない艶っぽい声音に年甲斐もなく我を忘れて溺れてしまった。

 一度の迷いが恵子の知るところとなった。
「あの子、辞めました……」
内心慌てながら、じっと黙っていることしか出来なかった。
「お金で解決しましょうって言ったわ。父が退職金出したそうよ。何もなかったことにするってことだから、何も言わなくていいわ。……自分の息子より年下よ……」
なぜ……と訊くことも出来ず、私は俯いていた。


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