秋霖-7
その日から感じるようになった心の空洞は何を意味するのか。望んだことが成就したというのに満たされた想いはない。何かが欠落した気さえする。良心の呵責か。
会社での日常はこれまでと変わりなく、心配していた次兄の様子も何ら違和感はない。
「今度、寒バヤ釣りに行こうか。冬は夏のようにはいかないぞ」
「はい……」
笑顔で応じながら以前のように調子を合わせることができない。彼に言葉をかけられる度に由美子が意識され、うろたえた。
(この人の妻を抱いた……)
その由美子は私が事務所にいることすら気付かないかのように視線を合わせない。出来事の重さを踏まえれば平然と対することはできはしまい。だから故意に私を無視するのは無理からぬことだが、表情の冷たさが私の心に渇いた風を送っているように思えてどうにも虚しい。もっと意識があってもいいのではないか。ぎこちない戸惑いの眼差しを見せてもいいのではないか。溶け合うほど濃密な情交を果たしたというのに……。
一度だけの約束がうたかたの夢の儚さをともなって、鮮烈な営みを遠い出来事に感じさせるのだった。
恵子の目が冷やかになったと感じるのは後ろめたさのせいか。ときおり気がつくと刺すような視線を向けている気がすることがある。溜息をつくことも増えたようだ。夜の営みを拒むことはなかったが、心なしか反応が鈍いようにも思う。
あの夜、次兄のマンションを出たのは十時前であった。友人と久し振りに会うと言ってきたにしては時間が早過ぎた。何より酒を飲んでいない。
販売機で缶ビールを買い、一本を空けた。さらにもう一本を手にぶらぶら歩いて公園のベンチに座った。空腹にビールが沁みてくる。
(由美子……)
指には彼女のにおいが残っている。果てた後も気持ちは萎えず、口づけを繰り返しているうちにむくむくと半ば勃ち上がって、そのまま挿入した。やがて由美子は歓喜に泣いた。
生々しい秘部をさらけ出したまま横たわる由美子を見ているうちに現実が迫ってきて、いたたまれずに黙って着替えて外へ出た。改めて顔を見合わせても言葉が見つからない気がした。それは彼女も同じだったろう。
どこか店に入れば時間はつぶせるのだが。……少し遠回りして帰った。
「どうしたの?こんなに早く」
恵子は訝しげな顔をみせた。
「恵子に会いたくなってさ」
冗談にも取り合わず、
「飲んでないの?」
そう言って顔を近づけた。
「飲んだよ。みんな明日早いんだって……」
恵子を避けるように風呂場に向かった。
口の周りには由美子のにおいが漂っている。自分では気づかない化粧品の香りもついているかもしれない。股間も気になる。早くシャワーを浴びたかった。
「ごはんはいいの?」
生返事をして浴室に入った。
しばらくして波ガラスの向こうを恵子の影が横切った。
(まずい……)と思ったのは下着である。彼女は夜のうちに洗濯物の仕分けをしておく習慣なのだ。下着や靴下と他の物を別の籠に入れる。
「分けておいてよ」
しょっちゅう言われていてほとんど守らないのでいつも彼女が整理するのである。
下着には痕跡があると思う。ニオイもあるだろう。気に留めずに投げ入れてくれればいいのだが……。
潜むように湯船に沈んでいると、様子がおかしい。
(長すぎる……)
一日の洗い物などいくらもない。それにしては時間がかかるし、妙に静かなのも気味が悪い。
気配をうかがっていると、やがて扉を過った影は亡霊のように音もなく消えていった。
風呂から上がってそれとなく見ていると恵子の顔に険しさはない。じっとテレビを観ている。無表情といったらいいか。端正な顔立ちが冷たい美しさを見せていて不気味であった。
ビールを出して飲み始めると恵子が立ち上がった。
「先に寝るわよ」
顔を向けずに言った。
彼女の後姿を目で追いながら、私はまだ由美子の余韻を引きずっていた。