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栗花晩景
【その他 官能小説】

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秋霖-8

 半月ほど経った。帰宅途中の夜、路地から不意に人影が現われた。
「義姉さん……」
鋭い眼差しが街路灯の光りを反射した。何も言わず、私を見据え、ふたたび路地の暗がりに身を入れた。
(待ち伏せしていた……)
とたんに動悸が速くなったのは不安がよぎったからだった。何かあった?もしや次兄にばれたのか。

 私は気を落ち着けながら、ことさらゆっくり煙草に火をつけ、辺りを見回して建物の蔭に入った。
「義姉さん、買い物?」
他に言いようがない。
 由美子は口元だけを綻ばせた微妙な表情をみせて目を伏せた。退社した時の服装のままでバッグ以外手にしていない。家に帰っていないのかもしれない。

 沈黙の後、由美子は通りに背を向けて声を落として言った。
「この間くれたチケット、今度の水曜日なの」
「ああ」
日時までは憶えていなかったが、定休日にしたのだった。
「そうだった。行くんでしょ、義兄さんも」
由美子は私を見上げて首を横に振った。
「そう。都合悪いんだ」
「言ってないの。それに、釣りに行くみたい。同好会の人と……」
「この寒いのに……」
言いかけて、そういえば少し前に誘われたことを思い出した。冬になって渓流魚の釣期が終わると寒バヤ釣りをするのだと言っていた。夏のように簡単に釣れないらしいのと寒いのが苦手なので今回は断ったのである。それに恵子の機嫌をとる必要も感じていた。どこか空々しい態度が続いていた。

「釣りの予定があるんじゃ言い出せないですね」
由美子に笑顔はない。
「あたし、行こうと思ってるの。せっかくのチケットだから。……一緒に行ける?」
やっと聴き取れる言葉を受けながら、恵子の顔が寒々と浮かんできた。

「行きます……」
「大丈夫?」
頷くと、由美子は溜息をついてうなだれた。


 そしてその日。私にとっても、おそらく由美子にとってもチケットはどうでもよかったはずだ。訪問の手段で用意した小道具が図らずもふたたび二人を結びつけることになった。
 結局、私たちはコンサートには行かなかった。ホールへと続く人群れの中で由美子が身を寄せてきて囁いた。
「主人、たぶん、十一時には帰ると思う……」
それまでに……ということだ。私はためらわずに彼女の肩に手をかけた。
「チケット、無駄にしてもいいですよ……」
「ああ……」
溜息ともつかない声。
「義姉さんといるだけでいい……」
由美子は答えず、私が方向を変えると身を預けるだけだった。

 そもそも次兄がいないことを告げた上で誘ってきたのだ。意を決している。生真面目な彼女のことだ。どれほど心が揺れただろう。
(時間はある……)
今日こそ最後になるかもしれない。気持ちは溶け出すほどに熱を帯びている。彼女だって同じ想いにちがいない。誘ったのは一度だけの約束をした彼女自身なのだ。
(疼いているのだ)
もはや遠慮はいらない。……
罪悪感は心の奥底に追いやられてしまっていた。

 この日出かけることをなかなか言い出せないまま、昨夜になって友人と飲みに行くというと、恵子は一瞥を投げかけただけで黙っていた。
「会うのは夜だから、昼間買い物にいこうか」
私は精一杯の作り笑いを向けて言った。
「特に買うものはないわ」
素気ない応えだった。何かを感じているのだろうか。
「友達って?」
「この間会った連中」
「また会うの?」
「そう。話し足りなかったってことで、電話があって……」
「何ていう人?」
「中本とか、石山とか……」
煙草を喫っているところへ息子がぶつかってきた。
「煙草の火、気をつけてよ」
ふだんより咎める調子がきつく感じられた。


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