やわらかな光り-8
(8)
松茸ご飯を持ってきた紀子が部屋をあとにしてから、おやっと思った。彼女に変化を感じたのである。
先ほどまでの明るさがない。口数も少なく、心なしか伏せ目加減である。
(ひょっとして……)
配膳時のやり取りを思い返した。むろん、冗談でなければいくら旅先とはいえ私には言えない。
(もしかしたら、口説いたことになったのかな……)
そう考えると心が騒いだ。小柄でぽっちゃりしている。容姿に取柄はないのだが何ともいえない愛嬌がある。憶測を巡らせつつ、温かな情に包まれていくのを心地よく味わった。
「お口に合いましたか?」
「ごちそうさま。美味しかった。本当に」
「それはよかったです」
「さすがは名産地だ」
「今年は当たり年だったみたいです」
膳を下げに来た紀子はことさらせわしなく体を動かしているように見える。やはり何となく硬さがある。
一度退出し、二度目にテーブルは部屋の隅に片付けられた。
「お粗末さまでした。のちほどお布団を敷きに別の者が伺います」
意識の壁を感じてさりげない言葉が出てこない。紀子の表情がどことなく強張っているのも想うところがあるのかもしれない。
襖を閉じかけた時、
「あとで、水をもらえるかな」
かろうじてつながりを保った。
間もなく宿の半纏を着た男が布団を敷きにきて、機械のような手際で整えると、入れ替わりに紀子がポットを持ってきた。
「お待たせしました」
枕元に、盆に載せたコップを伏せ、片膝をついた姿勢がほんの束の間、止まった。それは私の言葉が入り込む隙間を作ったようにも思えた。
「さっきの話、だめかな」
目の動きがめまぐるしい。
「本気なんですか?」
「もちろんだよ」
「あたしなんかと……」
「君だからいいんだ。失礼だったら謝るよ」
「いえ……。でも、知られたら……」
言いかけて途切れ、それ以上何も言わなかったのは私を信頼できる客だと判断したのだろうか。
「十一時頃になってしまいますけど……」
すぐ裏の別棟に住んでいるという。私が頷くと恥ずかしそうに口元を綻ばせた。
人声も途絶え、耳を澄ましても何も聞こえない。外は冷気が満ちているのだろう。窓は紗をかけたように曇っている。拭って遠くを見ると瞬く星のようにU市の灯りがきらめいている。
千尋は何をしているだろうか。
バッグの中から手帳を取り出して繰った。走り書きした『真夜中』という一文を見つめた。彼女が席を外した時に何気なく開いたノートに書かれてあったものを写したのである。
真夜中はどうしようもない 何か思いついても何もできない
真夜中はどうしようもない みんな寝ている
真夜中はどうしようもない ひとりぼっちだ
真夜中はどうしようもない 闇の中にいる
ひっそりとしているしかない じっとしているしかできない
真夜中はどうしようもないのか?
真夜中は息をひそめているだけなのか?
真夜中は朝を待つ時なのか?
真夜中は昨日を棄てて今日から明日への狭間だろうか
静かに 静かに
自分の体温だけが確かな拠り所
私は生きている 胸の鼓動が時を刻む でも……
真夜中はどうしようもない
千尋が作ったものなのか、わからない。
彼女は毎日命と対峙している。毎晩、孤独とともにいる。重い運命を抱えて生きている。私の寂しさなど何ほどのものだろう。むろん安易に比較はできない。人それぞれ抱えているものは異なる。しかし、現実を受け止めることしかできない肉体の異常と共に生き、耐えていく心の重さは察するにあまりある。深い溜息が紫煙とともに吐き出された。