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栗花晩景
【その他 官能小説】

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風化(1)-6

 バッグから缶ジュースを取り出すと立て続けに二本飲み干した。甘過ぎて後味がよくない。それでも汗が噴き出てもっと水分がほしかったが残りは一本しかない。このぶんではまだまだ相当かかりそうだ。水筒を持ってこなかったことを後悔した。

 平地との違いをつくづく感じながら煙草を喫った。二本目の煙草に火をつけたところで早くも和子が追いついてきた。ずいぶん引き離したと思ったが時間にするとたいした差ではないようだ。

「あら、もっと先に行ってるかと思った」
笑っている。
「待ってたんだよ」
「それはありがとう」
ばてているのは見抜かれているようだ。

「ここ、賽ノ河原っていうのよ。ここを越えれば休憩場所があるから、もう少し頑張って」
私の返事を待つことなく和子は岩の間を登り始めた。

 ふたたび歩き出して新たな困難を実感した。急勾配の箇所は両手を使って這うように登らなければならず、全身の筋肉に響く。それにその都度バッグが垂れ下がってきてその煩わしさが疲労度を増す。
 口の中が渇いてきて粘つき、とても不快だった。見上げると和子との距離が少しずつ開いていく。その度にピッチを上げるのでますます息が切れる。
 前かがみになって次の足場を探しながら進むので動きが不規則になってさらに体力を消耗する。休みたいと思ったが、着々と歩を刻んでいく和子の後姿を見ると声をかけられなかった。

 俯いていると岩場がどこまで続いているのか見えない。初めのうちは前方を見渡していたりしていたのだがそれも億劫になってきた。顎からは汗が滴り落ちている。

「おーい」
和子の声に顔を上げると目前に樹林が迫っていた。
(終わった……)
力が抜けてほっとした。涼しい木陰がすぐそばにある。

 和子は木の根元に腰かけて私を待っていた。振り返ると一面岩だらけで、なおかつゲレンデのような不思議な景観である。
 息が整ってくると苦しさが煙のように消えて心地よい疲れに包まれた。
「思ったより大変なものだな……」
素直に本音が出た。
「でも気持ちいいでしょ」
「うん、ほんとに」
喉を鳴らして一気にジュースを飲んだ。
「まあ、ジュース持ってきたの?」
「うん。三本。全部飲んじゃった」
私が水を持って来なかったことを知るとあきれながら分けてくれた。
「水は必需品よ。これからはジュースじゃだめよ」
これから……とは、またどこかに誘うつもりなのか。

 それからも登りは続いたが険しさはなく、ペースをつかむとさほど苦しくはなかった。
山小屋で昼食となったが食欲がない。おまけに菓子パンを持ってきたので口に入れるとぱさついてうまく飲み込めない。見かねた和子が握り飯を分けてくれた。塩のきいた飯は噛んでいると唾液が出てきて食べやすくて美味かった。
「パンはだめだな」
「やっぱりおにぎりでしょ」
和子は説教じみたことは言わない。卵焼きのほのかな甘さがやさしく感じた。

 わずか半日の体験で、私は山登りを甘くみていたことをつくづく思い知った。一歩一歩着実に踏みしめていた和子の歩き方の正当性がわかった。リズムを崩すと疲れも増す。一気に登ることはできないのだ。

 山小屋は多くの登山者で賑わっていた。
「来る時は誰にも会わなかったのに、ずいぶんいるな」
「反対側からも登って来るし、縦走する人たちもいるからね」
小屋は中継地なのだった。

 小屋を後にして小一時間、白駒池で一休みする。
「あとはたぶん降りになると思うわ」
「それじゃ楽になるな」
和子は困った顔で、
「そうでもないのよ。降りの方が膝にくるんだから。注意しないと登りより危ないのよ」
「そうなのか……」
 彼女の言った意味はしばらく歩いて実感した。疲れているところに調子に乗ってペースをあげると膝への負担がぐっとくる。つんのめらないようにしっかり足を踏みしめたほうが楽だった。

 いつの間にか周囲の樹木の種類が変わって蒸し暑さを感じるようになった。標高が低くなったことがわかる。勾配も緩やかになって道幅もひろくなった。
 稲子湯まで二キロの標識が見えてきて足取りも軽くなる。そこはバスの発着所で、山歩きの終着地である。あとはそこからバスで松原湖に行く。

 ほっとした気の緩みがあったのかどうか、
「やっと来たな」
私の声に和子が微笑みながら振り返った時、彼女がふらっとバランスを崩して転倒した。そして勢いのまま道から外れて藪の傾斜を滑り落ちていった。

「おい!」
慌てて呼びかけた。和子は逆さまになった格好で笑っていた。
「だいじょうぶか?」
「やだもう、ばかみたい」
幸い斜面は道から数メートルしかない。
「なんでこんなところで落ちるんだよ。崖じゃなくてよかったな」
 おりていくと、
「なんか足がふらついちゃって」
照れ笑いの顔がすぐに歪んだ。
「どうした?」
「足が痛い……」
どうやら足首を捻ったようだ。

 とにかく道まで上がろうとリュックを外して和子を抱えた。
「俺の首につかまって離すなよ」
立ち木につかまりながらよじ登っていく。和子も足を庇いながら私に合わせて踏ん張った。軟弱な腐葉土なので足を取られて滑りやすい。
 這いつくばるようにして上がりきると二人して尻もちをついて笑った。
「ドジだなあ」
「あなたが後ろから何か言うからよ。でもなんで落ちちゃったのかしら」
痛みで顔をしかめながらも可笑しくてしかたがない様子である。

 歩き出してすぐに笑い事ではないことがわかった。和子に肩を貸しながら山道を降るのは容易ではなかった。当初より痛みが増してきたようで足をつくことが出来ない。ベルトを握って体を引き上げながら一歩ずつ歩調を合わせて進むしかない。彼女の荷物も担いでいるのでなおさらきつい。


 


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