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栗花晩景
【その他 官能小説】

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風化(1)-5

 渋の湯という温泉場が登山口になっている。バスもここまで来る。タクシーで約三十分、バスだと一時間近くかかるというから二時間ほど時間を稼ぐことができる。

 湯治場のような古びた建物の脇に川が流れていて橋を渡って山道に入っていく。
「割り勘よ」
和子は私が支払ったタクシー代を半分払うといってきかなかった。
「いいって。こんなことで恩に着せたりしないから」
女の子とどこかへ行けば男が支払うものと私は思っている。
「そういう意味じゃなくて。貸し借りがない方が言いたいことが言えるでしょ。気が楽なのよ」
私の手に千五百円を握らせると靴紐を結び直した。

 夜がうっすらと明けてきていた。清々しい冷気に満ちた山が迫っている。
「深呼吸したくなるな」
「そうでしょう。それがいいのよ」
 案内板を見ながら丸太を並べた簡易な橋を渡り、和子が先に歩き出した。

 はっきりした踏み跡が一筋、樹林の間を縫ってなだらかに登っていく。朝靄をのせた草や木の葉が緑をいっそう鮮やかにみせている。山の朝である。
 和子の足が止まり、
「ちょっと見て」
彼女の視線の先に動くものがある。黄色い、猫ほどの大きさの動物がこちらを見て、次の瞬間、跳ねるように消えていった。
「何だろう……」
「テンかしら」
「テン……。見たことあるの?」
「ないけど……」
テンなのか、別の動物なのか、それはどちらでもよかった。ふだん目にすることのない野生動物を自然の中で見たことで私は小さな感動を覚えていた。つい六、七時間前まで埃臭い都会にいたことが信じられない思いであった。
「たしかに気持ちいい」
「なんだか心が広がっていく感じ」
和子も初めての山なのでその言葉には歓びが溢れていた。

 やがて勾配がやや急になって額には汗が滲みはじめたが足腰に変化はない。和子のゆっくりした足取りに歩調が乱れるようになった。
(遅すぎる……)
山登りは初めてだが歩くことにはいささか自信があって、ふだんから早足のほうなので彼女のペースはもどかしく、何度か立ち止まりそうになった。
「俺が先に行こうか?」
背中に声をかけると和子が振り向いた。笑顔が火照っている。

「遅いって思った?」
「ちょっとね」
「このくらいでちょうどいいのよ」
言いながら道をあけた。
「無理しないでよ」
その声を背に大股で歩き出した。
「途中で待ってるから」
後ろを見ると和子との距離がみるみる離れていく。
「あんまり先行かないでよ」
私は片手を挙げて応えた。

 三十分ほど黙々と進んでいくと草地の道は消え、巨大な岩が累々と連なった開けた場所に出た。どこが登山道なのかと見まわすと所々の岩に赤いペンキで矢印が記されてある。それに従って登っていくらしい。見上げるような起伏である。
 登り始めてその段差がこたえた。
(きつい……)
わずか十分足らず登ったところで石に腰を下し、休憩することにした。
(ここで和子を待とう……)
疲れが全身を被いはじめていた。肩で息をする状態になっていた。


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