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栗花晩景
【その他 官能小説】

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秋雨道標-3

 店の扉を開ける前から晴香の姿は目に入っていた。入口に最も近いテーブルである。そんな目立つ席に座ったことはかつてない。
 目立つといえば化粧をしていることに少なからず驚いた。化粧をした彼女を見たのは初めてである。秋頃、学内で化粧品会社の宣伝を兼ねた講習会があって女子学生で賑わっていたようだが、それにしても目を惹くほど濃い。

 晴香は腰を浮かせて私を迎えた。
「お忙しいのに、ごめんなさい」
「いや、忙しくはないよ」
私はなごやかなひとときを過ごそうと心に決めていた。卒業してしまえばもう会うこともないだろう。彼女とは『友達』ではなかったのだ。何度も体を合わせて愛し合った男と女だったのだ。人生の中で何人も出会う女性ではない。

「この店も久し振りだね」
私は努めて明るく振る舞った。
「そう、久し振り……」
晴香は店内を見回してから、バッグから小さな包みを取り出してテーブルに置いた。
「これ、定期入れなんだけど、就職のお祝い。あまりいい物じゃないけど、よかったら使って……」
「ありがとう……」
言ったものの、戸惑った。どう受け取っていいものか対応に困ってすぐに手を伸ばせなかった。晴香にもその迷いが伝わったのか、沈黙が流れ、私はむやみに煙草を喫った。

「煙草、けっこう喫うのね。本数増えた?」
「変わらないと思うけど……」
「喫いすぎはよくないわ」
私はそれには答えず、
「君は、就職決まったの?」
「ええ、何とか……」
「そう、それじゃ、何かお祝いをしないと」
「いいのよ、気にしないで」
自分が貰った手前、言ったものだが、話は弾まない。

 やがて晴香が目を瞬かせながら俯いた。何か話があるのだと思った。付き合っている頃に覚えた彼女の癖である。
 私から話すことは何もない。だが彼女の話は聞くつもりであった。

 一時間ほどした後、
「出る?」と言いだしたのは晴香である。それはいつも私が切っ掛けに使っていた言葉だ。
「うん……」
これでお別れだ。……
 私がレシートを取り上げると晴香がバッグから財布を出した。
「いいよ」
晴香は軽く頭を下げて先に店を出た。

 外に出ると晴香はゆっくりと駅とは反対方向へ歩き出した。暦の上では春だったがまだ冷たい風が吹き抜けていく。
「まだ寒いわね。卒業式の頃は少しは暖かくなるのかしら」
「三月になればね……」
晴香は話しながら歩き続ける。少し先を彼女がコツコツと靴音を立て、私は後をついていく形になった。

 人影がまばらになってきて私の胸にさざ波が立った。足を踏み入れた公園を抜けるとあの頃のコースである。
(まさか……)
 公園の中ほどを過ぎて晴香の歩幅が狭くなり、やがて立ち止まった。私は動揺を抑えるように煙草に火をつけた。晴香が振り向いた。
 この先はさらに人通りが少ない。見かけるのは目的をもった男女ばかりである。
 晴香は心持ち顎を上げた横顔を見せて黙っている。仄かな街灯の明かりに塑像のような輪郭がぼんやり浮かび上がっていた。

 私がためらったのは自分の性欲のやりどころではない。交際が完全に途絶えたはずの私をここまで引っ張ってきた晴香の心情に対して困惑したのである。
 彼女がホテル街を目指して歩いてきた真意はわからない。偶然足が向いてしまう所ではないし、見たところその場所を意識してこれ以上先へは進めないでいる。どうしていいかわからないでいる。

『そろそろ帰ろう……』
私がそう言えば終わる。きっと晴香は頷いて、そして私たちは駅で別れるだけだ。それが一番いいのだと思いながら、私は晴香の肩を抱いていた。
 正直なところ、彼女を傷つけたくなかったのが本心だったと思う。彼女の心は読めないが、どうかした精神状態の機微で情欲が沸き起こったのかもしれない。恥を棄て、女として限界を超えた行動に報いたい想いがあったとしたら傲慢だろうか。
 何にしても、晴香の意思を無視するのはつれない気がしたのは事実である。たとえ愛情のない欲に任せたセックスであってもひとときの快楽は肉体を翻弄するだろう。何も考えずに、ただ思い出を辿り抱き合ったほうが彼女の自尊心は保たれるようにも思えた。


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