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栗花晩景
【その他 官能小説】

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春雷(2)-4

 四年生になって就職活動が本格的になると同期生と学内で顔を合わせることも少なくなった。単位もほとんど修得していて、大半の学生は週に一、二回の授業しかなくなっていた。
 それでも晴香とは時々出会うことがあって、私たちはその度に挨拶を交わして行き過ぎた。「おはよう」と言葉に出すこともあったし、微笑や会釈だけをさりげなく投げ合ってすれ違うこともあった。

 私に心残りがなかったといえば嘘になる。互いに初体験の相手なのだ。愛し合った幾夜の激しい場面がふとした折りに思い出されて息苦しい想いに苛まれることもあった。
(人の心を踏みにじった天罰なのかな……)
そんな時、自嘲気味に呟くのが癖になっていた。

 今泉が地元のバス会社に就職が決まったのは夏休み前のことだ。
「本当は東京にいたいんだけど、親父が戻って来いっていうからとりあえずしょうがねえや」
父親のコネでまとまった話らしい。
「決まればいいよ。俺なんかまだどこにも引っかからない」
文学部を選んだ時に担任には出版社に行きたいからと動機を言ったものだが、職種にこだわっている状況ではなかった。文学部だからといって出版関係に有利なわけではない。史学科となるとむしろ敬遠されてしまう傾向さえあった。学芸員の口も探してみたが欠員はほとんどない。
「これからだよ」
今泉は言ったが、現実は厳しかった。

 弥生とは旅行以来頻繁に会うようになっていた。会えば肌を合わせ、私は彼女の熱情と躍動感のある肉体にいつしか心を奪われ、またその情愛に想いを寄せるようになっていた。
 なぜか会う度に服装も化粧も地味になってきたことも好感を抱くようになった理由でもある。女子大生らしくなったといったほうがいいだろうか。
 その変化について私は何も言わなかった。あえて訊くこともないと思った。それは私にとって喜ばしいことだったし、外見とともに人が変わったように言動まで優しくなり、従順になっていくのを見守るのは私自身の気持ちも穏やかになっていくようで、二人のつながりを緩やかな流れに任せておきたいと思ったのだった。
(これがこの子の本当の姿なのかもしれない……)
 私は苛立つこともなくなり、時に彼女を拠り所と感じるようにもなっていた。心にかすかな晴香の面影を潜ませながらも、弥生と会う時の私は平穏であった。
 彼女をいたわる気持ちが芽生えてきたのは心のありようとして必然といえるかもしれない。
 飢えたように体を求めることはなくなり、自然と惹きつけられ、愛し合った。
(弥生となら……)
夢を描くようにではあったが、漠然と結婚を意識したのは初めてのことだ。それだけ一体感を感じていたのである。言葉には出さないが彼女も同じ想いでいてくれると信じていた。

 その弥生も就職試験で忙しい日々を送っていた。
「やっと会えたね。忙しかったみたいで」
「四大の女子はなかなか難しいのよ」
当時よく聞く話であった。四年制の女子は就職してもすぐ結婚してしまうので敬遠されがちだという。真偽のほどは定かではないが短大卒の方が求人は多かった。
「長く勤めますって言ってるんだけどね。この間の面接官なんて、初めはみんなそういうんだよねって笑うの。採用するつもりがないのね。悔しいわ」
「でも、やっぱり結婚したら辞めるんだろう?」
「……わからないわ」
「どうして?」
「どうしてって言われても」
それ以上は答えず、気のせいかどこか寂しそうに微笑んだ。

 あといくつか受けてだめだったら、地元の市役所の試験を受けるのだと言った。
「その方が安定してるから一番いいんだけど、試験日が遅いの。秘書の求人はけっこうあるんだけど、長くはできないものね」
長く勤めることにこだわっているように聞こえる。
「長く勤めたいの?」
「だって、腰かけは中途半端だし。仕事ってそうだと思う……」
特に強い調子ではなかった。

 街は黄昏に包まれていた。せわしない人の群れを窓越しに眺めながら、
「まっすぐ帰る?」と訊いた。
弥生は小さくかぶりを横に振り、下を向いた。それが合図だった。目元がほんのり赤いのは久しぶりだからだろう。愛しさがこみあげてきて、店を出るときつく腰を引きつけた。


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