冬-1
『…ぞくちさん…溝口さん?』
校庭を見ていたさやかは自分が呼ばれたことにしばらく気が付かなかった。
『あ…はい』
『今の問いに答えてください』教壇の小太りの女教師は苛立った表情を隠さずにきつい声音で命じた。
『あ…すみません。わかりません』
『わかりませんじゃないでしょう。わからないんじゃなくて聞いてなかったんでしょ?立ちなさい』
教師の声が少しずつ怒気を帯びる。
『はい…すみません』
教室がざわつく。隣の男子がさやかに目配せしながら教科書のある部分を指さした。
さやかはそこを見下ろした。質問の内容はわかったが答えようとしない。
『ページ63!二段目の数式を解いて!』
さやかは瞬時に分かったが、下を向いたまま無言である。さやかはこの授業に参加する気持ちになれないでいた。この授業が退屈でならない。それをどうしても隠したくなかった。
『…』
『よろしい。そのまま今日は立ってなさい』教師はヒステリックに言い放つと二度とさやかに眼を向けることはなかった。
さやかは徐々に学校生活に馴染めなくなっていった。元いた田舎でも消極的だったが、転校して更にそれが加速した。引き篭もる気持ちにはならなかったが、心はどんどん内に篭っていった。
―ご相談したいことがございますのでご都合をお知らせ下さい―
さやかの担任からそう通達があったのは転校して三ヶ月のことだった。
彼は授業のある第二土曜日の放課後を指定し、さやかを同席させた。
『ご足労頂きまして申し訳ありません』
黒のロングコートと黒の大判マフラーを腕に掛けた彼が面談室に入ると、30半ばの小太りの女が立って一礼した。
『初めまして。叔父の才賀です』グレイフランネルのジャケットに黒のタートルネックの彼はさやかを後ろに伴い、浅く一礼しながら対面の椅子に座った。隣のさやかは緊張の面持ちである。
『早速ですが…姪御さんからお聞き及びかも知れないのですが、先日体育の授業でさやかさんの後頭部にボールが当たりまして』遠慮がちに口火を切った。彼の威風堂々とした佇まいに女教師は早くも落ち着きを失っている。
『はぁ…。…それで…?』彼が続きを促すと、女教師は大きな尻をもじもじさせて、
『いえ、…避けようと思えば避けられるものだったのです。…でも実は、それはほんの一例で、さやかさんは万事につけ集中力を欠きがちなんです。授業でも殆ど校庭を見ていて教壇に目を向けません』まなじりを決して女はさやかを見据えた後、彼に向き直った。
『そうですか…。…で、それで…?』
『え…?あの、ですから…』切れ長の鋭い目で畳み掛けられ、女教師は完全に気圧されてしまっている。
『…さやかはどなたかにご迷惑をおかけしているのでしょうか。または、成績が著しく落ちているのですか?』
『あ…いえ…。さやかさんは常に学年トップの成績で…』
『では…何が問題なのでしょうか』彼は心底不思議そうな表情を浮かべた。
『あ…の…』
『それでは、さやかにはくれぐれも校庭でボールに当たって怪我をしないよう言って聞かせます』
彼は女教師に向かって深々と頭を下げ、目を上げると、
『他に何かございますか?』
『あのいえ…それ以上は特には』
『そうですか。では、大変恐縮ですが、今日はこれから予定があります。他に無いのでしたらこれで失礼させて頂いてもよろしいでしょうか』
『あ…はいあの、お時間取って頂きまして』
女教師は最後まで彼のペースにのまれたまま、一礼して悠然と立ち去る彼を慌てて見送った。
『お…じさん…ごめんなさい』黒の革手袋をはめながらすたすた歩いて行く彼の後をランドセルを揺らして小走りに追いながらさやかはそう言った。
『何でさやかが謝ることがある?何の問題も無かったじゃないか。それをあの教師が針小棒大に捉えて俺を呼びつけた。それだけだった。さやかは何も気にするな』不安げなさやかを見返った彼の表情は穏やかだった。
『は…い』
『さやか、ガッコウってとこはな、組織に従属する馬鹿馬鹿しさに耐える忍耐を身につけるところなんだ。しかも授業はそこの大多数に理解できるレベルで進行する。大多数より上でも下でも退屈に耐えなきゃならない。あそこが退屈で耐え難いならもっと上のガッコウを探して受験することだ。日本で見つからなければ海外でもいい』
『え…?さや、別に他に行きたくない。外国とか…行きたくない…おじさんと離れて住みたくない…』
彼はさやかの反応に苦笑しながら
『勘違いするな。何もさやかを追い出そうと言ってるんじゃない。俺も退屈に耐えられなかったから、小学校の途中でイギリスに行った。そこは随分マシだった。ガッコウは何もここだけじゃないってことが言いたいだけだ』
『そう…なの…』
さやかの明らかにホッとした様子に、彼は微笑みながら頭をくしゃくしゃとかき混ぜるように撫でた。