泡沫の命を宿す者 4
少女はやがてすっかり男のほうを見ると、一切変化のない微笑みを讃え、唇を刹那も動かすことなく、しかし、声を発して言った。
「……マリカ」
それは――人形であるはずのマリカから発せられたそれは、声帯を通した声とは明らかに異質なものとして、男の鼓膜を震わせた。
数日が過ぎた。
男はマリカに部屋を与え、ベッドを与え、鏡台を与えた。男は毎朝マリカの部屋を訪れ、髪を梳き、服や下着を着替えさせた。マリカは睡眠をとらないし、髪が乱れることも服が汚れることもあまりないのだが。
男はマリカを非常に大切に扱った。
まるでブルーのサファイアのように、熱を与えず、衝撃を遠ざけ、柔らかな光のみを注いだ。そしてマリカも、男の光を無駄にしないよう、精一杯美しく輝いた。
少なくとも男はそう思っていた。
マリカに与えられた部屋にあるもののほとんどは、マリカには必要のないものだった。
本棚には本が揃っているけれど、マリカは本を読まない。ピアノが置かれているけれど、マリカはピアノが弾けない。鏡台も無意味なものであった。マリカには、鏡の意義がわからなかった。
それでもマリカは、与えられたその部屋で日々を過ごした。男の望むことを理解しているかのように。
「マリカ。起きているかい?」
男はノックの後に、必ずそう問いかけた。マリカが眠ることなどないということを、知っているのか、知らないのか。
『起きていますわ』
ドアのむこうから、妙な響きを含んだ声が返ってくる。男はドアを開けた。
マリカは相変わらずの微笑みを湛えたまま、部屋の椅子に腰掛けて窓の外を眺めていた。
「おはよう、マリカ」
『おはようございます』
ゆっくりと、首が男のほうをむいた。
「よく眠れたかい?」
『いいえ、よく眠れませんでした』
「……そうだったね、すまない」
『すまない?』
意味がわからないというふうに、マリカの首が傾ぐ。男は苦笑を漏らした。
「謝罪するときの挨拶さ」
『挨拶。こんにちは、さようなら、おはようございます』
「そう。それらと同じだ」
ふと窓のほうを見た。何日も降り続いていた大雨は昨夜にあがり、今朝は驚くほどの晴天に恵まれていた。
「さあ朝食にしよう」
『はい』
食卓に並ぶのは、トーストとハムエッグ、それにコンソメスープとグリーンサラダ。全て二人分用意されていたが、椅子に上ったマリカはそれらに手をつけようとはしない。
「久しぶりの天気だ、今日はいっしょに外にでようか」
トーストをかじりながら男が言った。