君がいなかったら 2
そんな店長の言葉を、湫は微睡みの中で思い出していた。
(接客か・・・)
その憂鬱に思う気持ちの反面、自分のことを全く知らない新天地であるならば、
自分の人見知りも克服できるのではないか?そんな期待も無い訳ではなかった。
そして、『カノジョの1人でも作ってくんだぁな』と冗談交じりに言った、
店長のその一言が、湫には気になっていた。
"カノジョ"という響きへの憧れは、湫と言わず、この年代の男なら誰でも抱かない訳はなかった。
湫の周りには、全くと言っていいほどに、女っ気はなかった。
男子高であったために、地元に帰って会う友達たちは皆、野郎ばかりだったし、
希望を抱き入った大学は、理工系の為か女は少なく、その少数いる女たちも皆、彼氏持ちだった。
居酒屋のバイトでも男子しか雇わない店鋪であったし、
合コンに参加しても、人見知りの湫は野郎としか話すことはできなかった。
そんな湫のことを人一倍、気に掛けていたのは、間違いなく店長であった。
大学進学と共に田舎から出てきた当時の湫は、ろくに敬語も喋れず、
バイト面接の際も顔を赤らめることしかできなかった。
調理場募集といえども『水商売』、自分には向いてはいないと諦めかけた数日後、
店長からの採用の連絡が入ったのだ。
調理場出身の店長は包丁も握ったことのない湫に、正に手取り足取り炊事場仕事を教えてくれた。
人見知りの激しい湫に気を使い、バイト仲間たちとの飲み会も頻繁に開いてくれた。
店長によって溶け出した湫の感情は友達に開かれ、
仲間とも言える男たちと、愚痴を言い合える程に成長していった。
この1年と4ヶ月の間に、初めてキャバクラに連れて行ってくれたのも店長であったし、
風俗で湫が初めて"男"になった時にも、隣の部屋には店長がいてくれた。
受験戦争後、初めて触れた男ならではの優しさの中に、湫は居心地のよさを感じていた。
このまま、この店長の基で一生働いてもいいかとさえ思っていた。
そんな中での本店行き。
数多いバイト人員の中で、何故、店長が自分を使命したのか、湫には分からなかった。
しかし店長の言うことに従えば、きっと強い男になれるような・・・
そんな、決して"特別手当"だけが目的ではないという自分の気持ちは、確かに湫は感じ取っていた
「お客さん終点ですよ!」
その声に意識を覚醒させたものの、自分が今、何所で何をしているのか分かるまで、時間が掛かった。
それ程に湫は熟睡してしまっていた。
慌てて脱いでいたスニーカーの踵を潰し、立上がると、胸元が濡れていた。
どうやら涎を垂らしてしまっていたらしい。
湫は誰かに見られやしないかと辺りを気にするが、すでに車輌の中には客はおらず、
先程声を描けてくれた、若い車掌が客席を見回ってるだけだった。
「あ。この列車はもう発車しないので、急がないでいいですよ」
湫の視線に気付いたのか、その車掌が遠くから声を上げた。
そう言われても急がない訳にはいかず、足元に燦爛したアルコールの缶を拾い集めると
早々にリックを背負い、車輌から飛び出した。
駅はシーンと静まり返っていた。
切れかけた外灯のジィーという音と、交尾を求める虫たちがけたたましく鳴いているだけだった。
湫は呆然と立ち竦んだ。
どうやら寝過ごしてしまったらしい。
折り返しの列車を待つべく、ベンチに座り込むしかなかった。
どのくらい待っただろう?
膝下で切ったGパンの、その部分が蚊に刺され、幾つもの赤い痣ができていた。
列車内で飲んだアルコールが原因で、尿意を催してもきた。
湫は仕方なく、ボリボリと脛を掻きながら、駅舎に向かった。
激しい水音を立てながら用を足していると、若い男が横に立った。
「あれ?まだいたんですか?」
湫はその男を、一瞬誰だか分からなかった。
男はベルトを緩め、腰パンを下げているため、派手なトランクスが嫌でも湫の目に入ってきた。
「お客さん、終電もう終わってますよ」
その言葉で、湫は"あぁ〜そうか”と思った。
私服に着替えている為、分からなかったが、その若い男は湫を起こしてくれた車掌だった。