駆け抜ける、青春 7
レベッカを優しく抱きしめ続ける千夏。
こんな事があって以降、レベッカは千夏を姉のように慕うようになったのだ。
そしてゴールデンウィークが過ぎた頃、陸上部の練習では・・・
大幅にタイムが伸びたのはレベッカだった。
めちゃくちゃだったフォームが様になっていき、持ち前のポテンシャルでグングンタイムを上げていっていた。
これは千夏との信頼関係が大きい。
彼女が自分の事を後回しにしてレベッカのフォーム修正を最優先。
レベッカも信頼する千夏のフォームを真似する事で矯正されていったのだ。
これも一年間のトレーニングで綺麗なフォームで千夏が走れるようになっていたからである。
そしてレベッカに触発された海里や春香もタイムを上げていた。
これは彼女達が部の方針に好意的だった上に、奈緒美があれこれ世話をして関係が良くなっていたのもある。
逆にタイムが伸び悩んでいたのは愛未だった。
部内トップのタイムこそ出していたが、その差は僅かになっていた。
特にスプリントではレベッカに並ばれるぐらいであった。
本人もそれで少しイライラしてる様子であったが、前川は『それでいい』としか言わなかった。
まるで突き放しているような言い方だったが、前川の笑みは優しさしか無かった。
「先生は私のどこが悪いと思ってますか?」
伸び悩む愛未が思い切って前川にぶつけてみる。
「どこも悪くない」
前川の答えはそっけないものだった。
「でもっ!私のタイム上がってません!」
「うん、君と彼女達は違うからだね」
イライラをぶつけるような愛未に前川は怒らない。
いや、誰に対しても前川は厳しく言わないし怒らない。
「彼女達の前には壁が無くて、君の前には壁がある」
「じゃあ!その壁を越えるのには?!」
「その壁は君が作り出しているだけのものさ」
愛未は中学時代、厳しい監督の元、ハードトレーニングで実力を上げて来た。
お前は才能が無いから人の何倍も練習しろと相当怒られてきた。
だが、前川は一度も怒らない。
それどころか入学直後の練習で『君の脚には神が宿っているよ。大事にするんだ』と微笑んで言ったのだ。
そんな風に褒められたのは初めての経験だった。
上手く走れなかったら怒られるのは仕方ない。
弱い自分を見せたら叱られるのも仕方ない。
そうやって叱咤されながら強くなってきたのが今までの自分なのだ。愛未はそう思っていた。
桃陽学園の一連の問題は愛未も知っていた。
行き過ぎた指導は問題である。でも、自分が強くなるためなら多少厳しい言葉も、指導者の手が飛んでくるのも教育のうち、という考えがあった。
だから余計に戸惑った。
そんなある日の練習中に愛未は足を痛めた。
自分でもたいしたことではないと思っていた。
しかし前川は愛未に「ちょっと休め」と言った。もちろん愛未は休む必要はないと思っていた。
「君はいつも頑張りすぎている。ちょっと休んでリフレッシュすることも大切だ」
「まだできます!」
愛未は前川を睨み返しながら叫ぶ。
「駄目だ」
前川は優しいが頑として首を横に振る。
「私っ!誰にも負けたくないんですっ!・・・だからっ、もっと練習しないとっ!!」
尚も叫ぶ愛未。
練習こそが今の自分を作り上げた自負があるし、負けない為には練習しかないと言う確固たる信念があった。
「青山は、負けたくないんだな」
「勿論ですっ!」
「なら、休め」
「だからっ!まだ出来ますっ!!」
食い下がる愛未に前川は静かにこう返す。
「怪我をすれば負ける事すら出来ない」
「っ?!!」
愛未の言葉が詰まる。
勝つとか負けるとかより、負ける事すら出来ないと言う言葉は重かった。
つまり勝負するステージにすら立てないと言う事なのだから・・・
「俺は、青山を勝負するステージに立たせてやりたい・・・だから休まないといけない時は休め」
そう言うと前川は雑用していた奈緒美を呼ぶ。
「青山を温泉にでも連れて行ってやれ」
「ええ、分かったわ」
奈緒美は微笑んで愛未を促すと、愛未は俯きながらも奈緒美に従ったのだ。
奈緒美の運転する車に乗せられた愛未。
無言で俯く彼女に奈緒美が視線を向けずに語る。
「私は、勝負するステージに立てなかったわ」
当時の奈緒美は岩間の肉便器だったし、走るステージを自ら潰したから怪我とは違う。
だが、勝負すらできなかった悔しさは当然あった。
愛未もその騒動は知っているし、当時の奈緒美の事を全て知ってる訳では無いが、彼女も巻き込まれてアスリートの夢を絶たれたと聞いていたし、前川とその直後に出会い結婚出産したと言うのも聞いた。
だから彼女の言うステージに立てなかったと言う無念さは多少理解できた。
「そしてあの人に出会って、練習だけでなく大事な事があるって知ったわ」
前川の実績は愛未もよく知っているし、むしろ愛未にとって前川悠平は憧れの選手だった。
箱根の一番苦しい区間での怒涛の五人抜き・・・
その後の実業団駅伝での数々の死闘やマラソンでのオリンピックの出場権をかけたレースでの激走。
怪我が無ければ、オリンピックでも栄冠に輝いていたかもしれない。