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駆ける馬
官能リレー小説 - スポーツ

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駆ける馬 1

1984年――――

日本競馬会は新たなレースの増設を決定した。
2月4週目にフェブラリーステークス、12月1週目にチャンピオンズカップというダートのGTレースを新設し地方競馬会とは手を組んで交流競走の設定などの計画が発表された。
3歳牝馬の3冠目には秋華賞という新設GTが生まれ、エリザベス女王杯は11月2週目に移動し古馬と3歳馬が対決する牝馬の頂点を決めるレースに様変わりする。
また、5月3週目には春の古馬牝馬のGT・ヴィクトリアマイルが新設、5月2週目のNHK杯はマイルに距離を短縮し3歳の短距離王を決める戦いへと生まれ変わる。
そして12月の最終週には次年度のクラシックを見据えた中距離の2歳GT・ホープフルステークスが新設。

さらにはクラシック競走や天皇賞の外国産馬の出走も開放された。

こうした計画は、日本の競馬が世界に追いつくために打ち立てられたものであった。
第1回ジャパンカップは招待された海外の馬はGT勝ちの馬などは少なく、GUレベルと言っても良い馬が多かった。
しかし、日本馬は健闘したのは5着までで勝ち馬に至っては5番人気のうえレコード勝ちを収めてしまった。
勝ち馬はアメリカ馬だったが、牝馬に負けた事は屈辱的だったのだろう。
こうした事があって、日本競馬はどんどんと変わって行く方が望ましいと捉えたようだ。
これによって、調教面、育成面、生産面も見直しが行なわれつつあった。
そして、日本在来の血統面の重視のみではなく海外からの取り組みも行なわれる。
過去にはマルゼンスキーと呼ばれる、持ち込み馬の活躍がスーパーカーと言われるほどの早さを見せていた。
サラブレットの輸入はこの時代――1984年から規則は緩くなっていく。
だが、こうした改革は大規模の牧場なら、ともかく中小規模の牧場には負担が大きかった。




―北海道日高地区

この地区には多数の牧場が経営されており、馬産地区としては発展を遂げていた。
だが、この競馬会が打ち出した改革によって頭を抱えている牧場の方が多い。
繁殖牝馬はどちらかと言うと、ステイヤーよりの血統が多くて急激にスピード馬の血統を入れ換えても成績に結びつくとは限らない。
何より、馬を入れ換えるだけのお金がある牧場は日高地区でもほんの一握り。


この日高地区に牧場を構える涼風ファームも家族経営の小さな牧場で存続の危機に瀕していた。

2代目の牧場長である鈴木慎太郎が病でこの世を去ったのが数か月前のこと。
慎太郎の妻の幸子とその間に生まれた一人娘・桜木真奈が数人の従業員とともに何とかしてこの牧場を守っていこうと決意したがそこには厳しい現実が待っていた。

現在涼風ファームにいる繁殖牝馬は2頭。
1頭はタケシバオー産駒で母父がシンザンという血統で仔出しが良く仔馬も丈夫な子が多かった。
もう1頭は近年のトップサイアーであるノーザンテースト産駒で母父はシーホーク。
種付けする種牡馬によっては非常に期待のできる子が生まれる、そんな思いを抱かせる存在であった。


「涼風ファーム……ここだよね?」

小さな牧場にある日来客が現れた。
20代半ばから後半くらい、28歳の桜木真奈と同年代の若い女性が小さな牧場の門をくぐり、中に入っていった。

白幡樹里、27歳。
父の白幡健三は大手住宅メーカーの社長であり莫大な資産を趣味である競馬にも多額を費やしていた。
馬主の資格を得て10数年、毎年数頭の競走馬を所有し走らせてきた。
しかしその建造も涼風ファーム先代牧場長の鈴木慎太郎と同じように病で他界、彼が持つ競走馬が娘である樹里に引き継がれていたのである。

鈴木慎太郎と白幡健三は学生時代から親交のあった友人同士であり慎太郎は涼風ファームの生産したサラブレッドを健三に最優先で託してきていた。
健三が樹里に残した所有馬―3歳デビュー前のダイコーター産駒、2歳のパーソロン産駒、それに1歳のファバージ産駒という3頭の牡馬とモガミ産駒の牝馬―はすべて涼風ファームの生産馬であった。


「誰もいないのかな…」

樹里は牧場の事務所を目指して歩く。
途中、繁殖馬や幼駒を管理する馬房を通りかけた時、樹里は男女の会話する声を耳にする。

「この牧場を売り払えば親父さんの借金をチャラにするって言ってんだぞ?」
「誰がそんなことするもんですかっ」
「フン、意地の強い娘だな…まあ牧場を売らなくてもこの身体を楽しめるからいいんだけどな…」

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