霧に包まれたコロシアム 21
「お、皇子……おい、ま、まさか」
『そのまさかだよ……今度こそ私を置いて行けアドルウス………どうやらもうわたしは歩くことが叶わぬようだ』
唇を片方上げて笑おうとする皇子の裸足の爪先が、みるみるうちに黒ずんでしおれてゆくではないか。
まるで冬枯れた小枝のように……。
『言葉の次は、足か………その次はさしずめ、目や耳だろうな?』
「お、皇子……」
『さあ、急いで逃げろアドルウス………時を騙す呪文は、保って数分だ………充分尽くしてもらった。早く行け』
「しかし……」
『気持ちは嬉しいが、いくらそなたでも、このわたしを背負って逃げるなどかなうまい』
「そんな、ダメだ……」
しかし、皇子を抱き上げようとするアドルウスの背後で、止まっていた時間が再び動きつつある。
動きを止められた兵士の口から、かすかに呻き声がもれはじめているのだった。
(……万事休すかッ!?)
アドルウスは皇子を抱き締めたまま、周囲で息を吹き返す軍勢の気配を感じていた。
「……そうだ、勝ち逃げなんて駄目ですよアドルウス!!」
そんな声が響き渡ったのは、その時であった。
「……このわたしを子供だからと殺さずに、貸しを作って逃げるなど、このアルビオンが許すものか!!」
皇子と供にその声を振り返った瞬間、いくすじもの植物の蔓が、大蛇の群れのように殺到した。
『………あ、アルビオン!?』
植物の大群を従えた白い呪術者の姿が、コロシアムを飛び出してくるのが見えた。
「………そのバカな傭兵に感謝しろ、弟よ」
アルビオンが白いフードを目深に被ったまま、すれ違いざまにそう叫ぶと、それに答えるように大量の蔦と蔓、イノシシの覆面男たちはもちろん、石像と化した戦士たちまでもが、今や動きを回復したバーミンガムの軍勢に突進して行くのだった。
(……この次まみえる時こそ、決着をつけよう、アドルウス)
不気味な笑みを浮かべるその顔や身体を、無数の弩弓の弾丸、そして剣が貫いていく……。
(……)
頭蓋に戦斧が降り下ろされんとする瞬間、アルビオンの唇にうっすらと浮かんでいたのは、微笑みだったのだろうか。
それとも……
………
ロータス皇子を背負って再び歩き出したアドルウスを追おうとする兵たちは、アルビオンが操る蔓に手足をからめとられ、または屈強な石像戦士たちにしがみつかれ、次々に転倒していった。
「ええい、何をしておる愚か者ども………蹴散らせ!……虫けらのように、踏み潰すのだッ!! …戦車を!! ………戦車を前へッ!!!」
不甲斐ない部下どもを怒鳴り散らすバーミンガムであったが、
どおん!!
ひときわ大きな衝撃音とともに、彼は輿もろとも夜明けの空へと舞いあげられていた。
「ぐぅぉおおおおおおおっ!!!」
逃げ遅れた奴隷どもを喰らいながら、雄叫びをあげながら周囲を威嚇する、ふたつの巨体。
それは、2人、………いや、2頭の毛むくじゃらの狼の化身であった。
もはや完全に怪物化した老人の名残は、うち一頭の顔半分をおおうどす黒い染みだけであった。
だが、理性を失った彼が結果的に、かつてヒトだったときに愛していた皇子を守っているのだった。
彼の雄叫びもまた、もしかすると歓喜の笑い声であったかもしれぬ……。
それは誰にも、知るよしの無いことであったが。
静寂に包まれるコロシアムのすぐ外であるこの砂丘は、皮肉にも、この寂しい廃墟である闘技場のかつての輝かしい思い出の姿のように血と絶叫と、狂気とに支配されていったのであった……。
やがて。
互いに殺しあうもの同士が巻き起こす砂ぼこりを背に、皇子と傭兵、二人連れの逃亡者は、夜明けの光の中へ消えて行ったのである。
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その年。
王妃の連れ子であった皇子ドラクロアは正式に聖ローゼン国王として戴冠を果たした。
しかしそのわずか10年後、暴君ドラクロアの崩御を機に民衆を導き、共和制を王家に認めさせる指導者が現れ、聖王家はその7百年余の長きにわたる支配の歴史を終えることとなった。
その指導者の出自は不明であるが、その者は目も耳も言葉も失い、歩くことも手をつかうことも出来ない身ながら、忠実に従う老いた傭兵を介し、良く民衆を導いたと伝えられているのだが、それはまた別のお話である。
………コロシアムからまるで霧のように消えた皇子と傭兵の行方は、遂にだれにもわからぬままであったという。
Fin
BGM:「ハルジオン」
BAMP OF CHICKEN