栞の手記 1
とあるTという駅で待ち合わせた。
栞は何も考えられなかった。
4月の日差しは、
爽やかでもある空気を澱ませて、
栞の白のブラウスを汗ばませていたのだが、
ブラウスがまるでその栞の素肌のように湿っていたのは、
この季節だからだけだからという訳ではなかった。
これまで幾度もなく自分のことを考えていた。
いや、自分のことを感じていた。
家からT駅への道のりは、
まるで長い白い廊下を永遠に歩かされているようで、
4月であるのに、
夏のかげろうが目の前を覆って居るように感じられた。
何もない誰でもない栞の目の前に飛び込んで来るものはすべて幻想のようであるのに、
家の最寄りのS駅への途中、
クリーム色のダックスフンドが、
赤い首輪を付け、電柱の根元で、
ねずみ色の電柱の根元で、可愛い顔をして、おしっこをしていた、
それだけが、今、栞の脳裏に焼き付いていた。
いや、正確に言えば、
それだけがリアルの風景だった。
「解像度が違う」
ITの知識に詳しい栞であるので、
一応そういって自分を納得させてはみたものの、
なぜ解像度が違うのか、どうして他は幻なのかさっぱり分からなかった。
けれども、
これからなにかが起こり、
それがこの世界のリアルを取り戻すための重要なキーであることだけは分かった。
あのダックスフントはどうしてあんなに可愛い顔で、
おしっこをしていたのだろう?
どうしてあのシーンだけ解像度が違うのだろう?
その答えが出ると思うが、
しかしそのとき本当に壊れると予感してる自分は、
それだったらこの場で自慰してもいいかもしれない。
会わない方がいいのかもしれない。
その方が絶対いい。
とは思うものの、
しかし、どうしても高鳴っているのに濡れてこないのだった。
こんな明るい気持ちでは濡れてこないのだった。
T駅に到着し、照りつける太陽から逃れた栞は、
だらだらと垂れていた汗をハンカチで拭った。
ハンカチの一面で汗を拭っては、また折り返して、
拭うのを繰り返した。
汗をかいたからか、喉の渇きを鮮烈に覚えた栞は、
すぐそばにあった自動販売機で水を買って、
一気に半分ほど飲み干した。
急速に冷たい水が身体へ行き渡り、同時に頭も冷えていくのがわかった。
ふと、栞は、こんな人前なのに、それにあの人に会うのに、
この汗だらけの姿ではいけないと気づき、駅の化粧室へ向かった。
鏡をみると案の定、汗で髪がべとつき、
服も汗染みができていた。
T駅の化粧室には誰もいなかった。
がらんとしていた。
白いタイルが肌に触れて、
その冷たさに火照った身体が少し落ち着いたような気がした。
どんな匂いに思われるんだろう?
栞は何故か気になった。
「お前からは獣の匂いがする。」
「お前からは飢えたマゾの匂いがする。」
そうあの人は言っていたのだけれど、
今の私からもそんな匂いがしているのだろうか?
そう思っていると段々と身体が再び上気してくるのが分かった。
しかし、上気している身体とは裏腹に、
やはり、会わない方がいい、
そう思った栞は、待ち合わせの時間が迫っているのに、個室トイレへ入った。
栞は、自分がどうするべきか、わからなくなってしまった。
もう時間が来てしまう。
そう途方に暮れていると、どんどん時間が過ぎて行ってしまっていた。
もう待ち合わせ時間はとうに過ぎてしまっていた。
しかし、自分でも分からない衝動を抑えられなくなった栞は、
その待ち合わせ場所へ行ってみることを思いついた。
「ごめんなさい。やはり今日は会えません。」
栞はメールでそうメッセージを送って、待ち合わせ場所へ足を運んだ。