霧に包まれたコロシアム 20
「……朝の巡視に自ら出向くとはご苦労だな、いや、少々肥えたそなたのことだから、朝食前の散歩だったかな、バーミンガム?……たかが肥満防止のための散歩にグレイファントム級を従えるとは、ものものしいことだ……何か後ろ暗いことでも有るようではないか」
あくまでも陽気に、しかし剣の柄に右手をかけたままアドルウスが答えた。
「!?……無礼な、貴様何者か!?」
「ああ失礼……俺は傭兵アドルウスと申す者だが、口が悪いのは勘弁してくれ貴族様……おれはただこの皇子の念話を通訳いたしたまでにございます」
答えながら、ふたまわりほどもからだの小さい皇子をかばうように、1歩前に出る。
「ふん、あのアルビオンを退けたは貴様か……腕に自信があるのだろうが、私の手勢を相手にして、その減らず口がまだ続けられるかな?」
バーミンガムはいまいましげに頬をひきつらせ、
「弩弓兵構えッ……歩兵は輸送戦車に随行しつつ前進ッ!!」
腰のレイピアを引き抜きざまに、怒りに裏返った声を響かせた。
オレンジ色の砂塵を巻き上げ、軍勢が二人きりの逃亡者に殺到する!!
「……皇子は殺すなッ!! 手足を奪ってでも生かしてワシの前に引き据えよ!!…一生ワシの奴隷として夜毎可愛がってやる!! 生意気で高慢なそなたの美しい顔が恐怖にひきつり、ワシの愛撫に震えるさまを死ぬまで楽しんでやろうではないか!!……男の方はかまわぬ、や、八つ裂きにせいッ!!!」
バーミンガムの狂気をはらんだ叫びはしかし、兵たちの怒号と鎧の金属音、戦車の重くきしむ車輪の音にかき消えてしまう。
「不足なし!!……ゆくぞ皇子、背中を離れるな!!」
右手に愛剣、左にダガーを構えてアドルウスは吠えた。
『死に急ぐな、我が剣よ』
圧倒的不利のこの状況で、しかし皇子は笑って答えた。
『まずはわたしに先制させてくれ』
皇子は微笑みを浮かべたまま、指先を足元の砂上に向ける。
「!?」
アドルウスが振り向く間もなく、足元の砂粒が花火のように小さな光を放ち始めた。
それは古代文字の形を描いて、バチバチと閃光を放つ。
次の瞬間、男たちの叫びと足音、武具の鳴る音や地響きに耳をおおわんばかりだったはずの周囲が、静寂に包まれた。
弩弓の引き金に指をかけたものたちは、それを構えたまま。
投げ槍を振りかぶった兵たちは、その投てき姿勢のまま。
砂塵をあげて突き進む輸送戦車は、砂ぼこりを撒き散らしたまま。
バーミンガムは、奴隷の運ぶ輿の上で、怒りにひきつった顔のまま。
全てが、その動きを止めてしまったのだ……。
『さあ逃げよう……しばらくこやつらは動けぬよ』
「お、皇子!?」
いったい何が起こったのかわからぬアドルウスに、
『蔓の樹液で、時だましの呪文を砂上に描くのに時間がかかってしまったな』
皇子はまた花のように微笑んで、アドルウスを追い越して駆け出したのだった。
しかし。
その皇子は砂ぼこりをたて、その場でたおれこんでしまった。
「お、皇子ッ!?」
『……くっ……やはり駄目であったか』
抱き上げたアドルウスの腕のなか、皇子が苦しげに喘ぐ。
『……呪文であれ暴力であれ、相手を攻撃したり傷つけたりしようとすると、淫花の呪いが発動してしまうのだが……ただ動きを封じようとするだけでも、効果が現れるとは、予想外だったよ………』