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さよならの向こう側
【悲恋 恋愛小説】

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第四章 昭和十一年〜桜〜-1

第四章 昭和十一年〜桜〜

今年の冬は寒かった。
割と温暖な気候で知られる海沿いのこの町でさえ、吹き荒ぶ寒風に身が縮んだのだから、東京なんてかなりの雪が降ったのだと聞いている。
そんな降り積もる雪の中、二月二十六日には皇道派の陸軍軍人らによる首相官邸や警視庁等への襲撃事件が勃発し、どうやらこの国の中枢は血なまぐさい混乱が生じていたようだ。
…まぁ、こんな片田舎に生きる十一歳の小娘にとっちゃ、あまり関わりも実感もない話だったけれど。
むしろ、そんな一ヶ月も前に起こった都会の事件よりも、今、目の前で遠い目ををして座り込んでいる母様の方が私にとっては大問題だった。
原因は…先ほど届いた父様からの手紙だと思う。

『娘が生まれた』

どうやら、紙面に達筆でつらつらと書かれている文章を総括すると、そんな内容になるようだ。
名前を『茂子』と付けられたその赤ん坊は、すなわち私の妹になるわけなのだけれど、父様が暮らす東京のお屋敷で正妻さんから生まれたお嬢様であるその子と、お妾さんである母様から生まれた愛人の子である私が顔を会わせることは、たとえ姉妹といえどもこの先一度たりとてあり得ないだろう。
それどころか、父様とだって年に数回しか顔を合わせることがないのだから。
陸軍軍人だという父様は、東京で旧家ご出身の奥様と五歳になる息子さん、先日生まれたその赤ちゃんと暮らしている。
そんな父様と私たち母子の繋がりはというと、奥様と結婚して間もない頃、まだ若かりし父様が、たまたま客として訪れた赤坂の料亭で働いていたのが地方出身の母様で。
親が決めた相手と結婚し、まだ子宝にも恵まれない奥様との関係にすき間があったのか、やがて父様と母様は恋仲となり、そしてできた子供が私――榎本ハルなんだそうな。
二年前、ちょうど私が九つになった日の晩に、お酒に酔った母様が話してくれた衝撃の出生。
私生児という事実。
でも、生まれた頃からほぼ母子二人の生活で、ごくたまに訪れる男の人が『父様という人らしい』そんな日常、幼心にも薄々は訳ありなんだと感づいてはいたけれどね…。
「ハル」
「なぁに、母様」
私を呼ぶ母様。
けれど、その目は私を見ていない。
「…父様は、もうここへは来てくださらないんじゃないかしら。可愛いお子様がまたお一人増えて、もう、私たちの事なんて忘れてしまうのではないかしら」
呟くようにそう言い、母様は涙を流した。
…あぁ、まただ。
母様は、この人は、そうしていつも遠い目をして窓の外を見つめながら、いつ来るともしれない父様を待ち続けているのだ。
目の前にいる十一歳の娘なんて、まるで視界に入らないみたいに。
そうして、そのことがどれほどその娘を傷つけているのかなんていう事には、微塵も気付きもせずに。
「…父様はお優しい方ですもの。ここに暮らす子どもも可愛いと思ってくださっているのなら、また来てくださるでしょ」
…あぁ、つい嫌みっぽい口調になってしまった。
感情を表面に出してしまうのは、子どもじみて好きではないのに。
「…ハル。あなた、大人っぽい話し方をするようになったのね」
「―――…」
そうね、あなたに本音を悟られないくらいには。
つくづく、どこまでもおめでたい人だと思う。
…胸に、ひとつだけ秘めた決心がある。
『男に頼り、男を待つだけの生き方しか出来ない、そんな母様みたいな大人には絶対に…ならない』

「町に行ってきます。お米がなくなりそうなの」
振り向かないとわかっている母親の背中に向かって声を掛ける。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
白いブラウスの華奢な背中は、やっぱり動かないままだった。


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