投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

エス
【純愛 恋愛小説】

エスの最初へ エス 9 エス 11 エスの最後へ

エス-10

「…悪い、言いすぎた。腑に落ちない部分もあるけれど、きっといくら説明されてもお前にしか分からないんだろうな」

加藤はいつものように頭を掻いた。
エスは顔を上げずに首を左右に振った。

「…本当なの。普通に生まれたかった。そうしたら、もっと幸せだったのに」

顔を上げて言ったエスの頬には涙の筋がついていた。
エスは泣いていた。

加藤は涙を見て気づいた。
目の前の小さな少女の背負っているものの大きさに。
少女の発した言葉の意味に。

理性や意思よりも早く体が動いた。
ビニールの安物の傘を地面に落として小さな少女を抱きしめた。
決して力が強いわけではないけれど、それでも、少女を安心させるには十分な力だった。
右腕で肩を、左腕で頭を、自分の体に押し付けさせた。

エスは驚いた素振りも見せずに、ただ、加藤の胸に抱かれた。
顔をつけて、静かに涙を流した。
加藤の大きな手がエスの頭を撫でた。
何度か頭を撫でた後、エスはそっと加藤の胸から離れた。

「やだな、泣いちゃった。恥ずかしい。……偉そうに言った後に何だけど、それでも頼まれると教えてあげちゃうの。困ってるって知ってるから。その人だけじゃないって分かってるのにね。……あたしを知らない人の方が多いんだから、やっぱり神さまみたいに不公平なのかな」

そう言ったエスの顔は笑顔で、涙は止まっていた。
加藤は何も言えなかった。
そして何も出来ないと、思った。
傷つけたような気がした。
でも、エスは分かっていたんだと思うとやりきれない思いが広がった。

煙草をポケットから探ると右手で一本抜き、口に咥えてから体を曲げて落ちた傘を拾った。


 その日はそのまま別れて、加藤は家路に着いた。
狭いアパートの玄関のドアを開く。
1Kの空間には捨て損なったゴミ袋が幾つか転がっていた。
幸いまだ虫は湧いてないらしい。
靴を脱ぎ捨てると明かりも付けずに部屋に入った。
途中で何かを踏んだが気にもしない。
鞄を置き、ふと、テレビの横のカラーボックスの上に目をやると、今じゃ滅多に使う事の無くなった電話機のボタンがチカチカと赤く点滅していた。
加藤は近づき、「留守」と大きく書かれたそのボタンを押す。
カチャ、キュルキュル…と巻き戻す音がした後、聞き覚えのある濁声が流れる。

「おら、加藤。お前ちったぁ、社にも顔だせや。進行具合をちゃんと報告しろって言っただろーが。明日来なかったらクビだ、分かったな!」

それはあの編集長の声だった。
加藤は大きなため息をひとつついた。
蛍光灯の紐を引く。
何度か点滅してから付いた青白い光は弱々しく、電球が古いことを物語っていた。


翌日、加藤は渋谷に向かわず雑誌社に向かっていた。
数日ぶりに乗る違う電車に落ち着かない。
理由は電車だけではないのだが、加藤は気づいていない。

古いビルにある会社に着くと深呼吸をしてから自分の職場のドアを開けた。


エスの最初へ エス 9 エス 11 エスの最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前