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銀の羊の数え歌
【純愛 恋愛小説】

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銀の羊の数え歌−16−-1

畑野さんからあんなことをきかされてからというもの、僕は随分とぼんやりすることが多くなった。しかたがない。そうやって時々は自分の手の内から意識を手放してやらないと、どうにかなりそうだったのだ。
人間は誰だって、二十四時間現実と向かい合うことは出来ない。多かれ少なかれ、どこかで目の前にあるものから目をそらす瞬間が必ずある。だけどそれは、逃げているのではなく、生きていくうえで絶対に必要なことだと僕は思う。
人間の精神なんて、風船みたいなものだ。 空気を吹き込み続ければ、必ず破裂する。破裂すればどうなるか。狂う。だから、そうならないためにも、どこかでその抱え込んだあれこれを、ほんの一瞬でも外へ出してやらなければならないのだ。
そして僕の場合は、ただ、その瞬間がちょっと長くなっただけのことだった。
多分、僕がこれから先も生きていくために。
閉店後の『OZ』は、放課後の校舎のように閑散としていた。
それまでこの空間を飛び交うように埋めていたいろんな種類の客の声も、マスターがいつも好きでかけている古い洋楽も辺りから消え失せ、気が付くと、埃っぽい静寂が僕と一緒に残されていた。
なにかにつまずくと、いつもこうだ。
店をしめてもここに残り、時間を忘れて、一人じっと物思いにふけってしまう。
僕にとって、生活の匂いがいっさいしない『OZ』は、そうやって考え事をするには最適な場所だった。
すっかり顔なじみになってしまったマスターも、窓際の席から動く気配のない僕に軽く挨拶をするだけで、あとはバイトの真壁に任せてさっさと先に帰ってしまった。
それが、今から十分くらい前のことになる。 時折きこえてくる、水の音や食器の音、冷蔵庫を開け閉めする音に耳をすましながら、僕はその間、ずっとそこから見える夜の世界を眺めていた。
頭の中は、空っぽだった。
僕が現実の世界に引き戻されたのは、目の前にコップを置かれた、その物音でだった。
ハッとして手元を見ると、ずんぐりとした青いマグカップに黒っぽい液体が浮かんでいた。
「コーラだよ」
と僕の横にたっている真壁が言った。
すでにエプロンも外していて、ヤツはいつもの格好に戻っていた。彼は暖かでもなく、かといって冷たくもないあっさりとした口調で、
「今回は、ひどい落ち込みようだな」
と言った。
僕はあまりに真壁らしい言い方だったので、思わず笑ってしまった。ここが、こいつのいいところなのだと、あらためて思った。
「あんまり情けねぇ顔すんなって。そんなので明日から仕事出来るのかよ」
「ああ。出来るよ」
コーラを少し飲むと、僕はいつものハスキー犬顔を見上げて頷いた。
嘘ではなかった。
今の僕には、むしろ仕事をしている時の方が楽だとさえ感じることが多かった。
作業をしている間は、それだけに集中しているせいで、余計なことを考えなくてすむ。
頭の中が、体と一緒に同じ方向へと突き進んでくれる。
僕が怖いのは、それ以外の時間。仕事の休憩中や帰り道、風呂に浸かっている時や便所に入っている時。中でも、最もいやだったのが布団に入ってから眠るまでの一時だった。
一人になって思考が手放しになると同時に、闇の魔力みたいなものも重なって、僕は必ずと言っていいほど柊由良のことを思い出した。 しかもそれは何の前触れもなく、突如、胸の奥底から衝動的に突きあげてきては、ほとんど肉体的な痛みとなって僕を苦しめた。
時には、僕が見たことのない、柊由良の苦しむ映像まで頭の中に浮かんでくることも何度かあったほどだ。その感情は、悲しみや寂しさよりももっと刹那的で、危険だった。
先の全く見えない、両側が断崖絶壁の細い道を歩いていて、いきなり外へ向かって突き落とされるような、そうやってふとした瞬間に精神が逸脱してしまうんじゃないかという恐怖がそこにはあった。
冷たいマグカップを両手で包み込むようにしていると、真壁のため息がきこえた。
「ま。お前が何に悩んでいるかは知らないけどさ、言いたくなったら言ってもいいんだぜ。ちゃんときいてやるよ。暇な時に」
落としていた視線を、再び真壁へ向ける。
ヤツは僕と目が合うと、わざと変な顔をしてみせてから煙草を一本加えて、火をつけた。 吸い込んで、ふぅ、と天井へ向かって煙を吐き出す。
「けどさ、お前がそれだけ悩んでるっていうのは初めてだぜ。少なくとも、俺が見た中では一番重症だな」
「そっかな」
と僕は苦笑した。
「ああ。だってさ、お前、亘理と別れた時だって、そこまで落ちこんでなかったぜ」


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