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パルティータ
【SM 官能小説】

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パルティータ-9

 …………

自分が誰なのか……そんな空回りをする疑問に女が戸惑い始めた若い頃、彼女がまだ二十八歳のときだった。初めての彼女の誕生日を祝ってくれた男の言葉を思い出す。あのときもそうだった。女は男を知らなかったが、男は彼女を知っていた。男が知っていたのは女が知らない《もうひとりの自分》だった。

男はあのとき言った。きみは、《ぼくがストーリーを想い描ける素敵な女性》だと思っている……。

妻がいたその老紳士は艶やかな白髪をなびかせ、とても端正な顔をしていた。男はある音楽大学の教授だった。彼は女に高価な黒い下着を与え、イヤリングも指輪も、踵の高いハイヒールも彼が選び、彼の思いどおりに女を作り上げていった。そのとき、女は自分が《そういう女として自分が男に封じ込まれている》ことについて、初めてもうひとりの自分の影の気配を感じ、自分についてストーリーを感じた。
あのとき、日常のある彼が、非日常の彼女を求めた。女は初めて自分が非日常の女だと意識した。彼女は男の中にそういう女として描かれた。男は全裸で女の足元に跪き、後ろ手に手錠をされた引き締まった胴体をくねらせながら女のハイヒールの先端にキスをした。男は女の前で憐れな奴隷となることをとても切望していた。
男は彼女の血脈に流れるストーリーに耳を澄ますように脚先の愛撫を続けた。脚を組んだハイヒールの爪先を追い求め、舌を出し、何かに酔ったような顔をして。ふたりにつかみどころのない色濃い意識が芽生え、互いのストーリーが描かれていった。女は男の唇の中にハイヒールの爪先をねじ入れ、弄(もてあそ)んだ。彼はとても苦しげな表情を見せながらもその瞳は心地よい恍惚に酔い、薄い唇の端からは唾液を烈しく滴らせた。女の体はとても柔らかくなり、少しずつ開き、渇いていた果実の内側が喘ぐように濡れていた。

 非日常にある互いの姿を、互いの不在を、くすぐり合うように描くことが快感だった。男と女がお互いを知るとはそういうことだと彼女は思った。それは性的な行為ではけっしてなかった。男は女の中に挿入もしなかったし、彼女は彼のものを受け入れてはいない。女は鞭を手にした。男がそうさせた。そして彼女は《そういう女》をさらけ出し、男の背中に向って鞭を振りあげた。男は鞭の痛みに酔い、女は自らが《そういう女》であることに特別な自分の影を感じた。女は男を痛めつけることをとても自然に感じた。女の中にずっと漂い続けていた《自分の不在と影》がそうさせていた。


不意に訪れた遠い記憶は、ゆるめられた心の中に樹木の葉が微かに揺れる音を含んでいく。あのとき《そういう女》になれたことに今の自分が違和感をいだかないことが不思議だった。女はあの老紳士の所有物になれたと思っている。鞭を振り上げながらも、実際は彼のものとして、封じられた女だったと思っている。途切れ途切れになる記憶が混沌(カオス)となって心の奥深く染み込んでくる。

老紳士の気配が密やかな鈴の音となって彼女の不在という空洞の中で遠く木霊する。女は彼との初めての接吻をあらためて想いだしていた。唇ではなく、足先に、足首に、ふくらはぎに、跪いた彼が肩をすぼめてうつむき、彼女が男のものであり、彼が女のものであることを確かめるように重く、深い接吻だった。そんなキスを女はこれまでどんな男とも交わしたことがなかった。そして初めて彼に持たされた鞭をあれほど巧みに、まるで彼に操られるように使えたことが自分でも不思議だった。男の体に弾ける鞭の音がとても快感だった。それは彼を捕えた感覚ではなく、女が男に囚われた感覚だった。囚われ、欲望される感覚。壁の大きな鏡に映し出される鞭を手にした彼女の姿こそが自分のほんとうの姿だと思った。男の翳りのある背中がしなり、引き締まったお尻の肉がぷるぷると震え、彫の深いペニスは猛々しく勃起していた。それに苦痛にゆがんだ彼の顔はもっと美しかった。潤んだ瞳も、唇から洩れる嗚咽も、のけ反る咽喉元も。その美しさが女の中に、彼女のためだけのストーリーを生んだような気がする。


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