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パルティータ
【SM 官能小説】

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パルティータ-1

あれは二十年前、女がまだ三十歳のときだった……。
なぜあのとき、玄関の扉を開けたのか女は覚えていない。女の目の前に立っていた面長の男は背が高く、細い腰をしていた。濃紺のスーツを寸分の狂いもなく着こなし、薄い臙脂(えんじ)のネクタイにはわずかなゆるみも見られなかった。年齢は女と同じくらいだろうか。どこかで会ったことがあるような気がしたが、誰なのかは思い出せなかった。それは二十年たった今でも変わらない。遠い過去に、男が自分にとても近いところにいたように女には思えた。
そのとき不意に記憶の底から甦ってきたのは、女が十七歳のとき、白樺の林の中にいたという不確かな記憶だった。林の中には蒼い沼があり、彼女はその深い色を湛えた沼を見ていた。なぜそこにいたのかはわからないが、誰かを待っていたような気がした。そして男と出会った。おそらく彼は女が待っていた男ではなかった気がする。そして、その憧憬が、そのことが、現実なのか、夢なのかはわからない。彼女がその林の中のどこかに男に監禁され、レイプされたという憧憬。女は深い沼の底にあるような記憶を今でもふと感じるときがある。

女は玄関先に立つ男に、《その記憶の何かに結びつくような気配》を感じたのは確かだった。
男はスーツケースを売る営業マンだった。男が勧めたのは葡萄酒色のスーツケースだった。それはとても大きかったが、背の高い彼の傍に置くと小さく見えた。
「とても便利で大きさのわりに軽くて使いやすいものです」
男はそのスーツケースについて事務的に淡々と説明した。女はそんな大きなスーツケースが自分に必要だとは思っていなかったが、彼の声にじっと耳を傾けていた。
「もしかしたら、あなた自身もこのケースで運べるかもしれません」と男は突然、そう言った。
「あら、私が入れるとはとても思えないわ」と女は笑いながら言った。
男は微かな笑みを浮かべながら、女の身体を測るように彼女の輪郭に視線を這わせた。そのとき女は、彼の手によってほんとうにスーツケースの中に自分が折りたたまれて入れられ、厳重な鍵がかけられたら、とても心地よくなれるような気がした。
「あなたはすでにこのスーツケースの中に封じ込められた自分を描いています。それはきっと、あなたが忘れ去った記憶のストーリーなのです」男はそう言った。

一週間後、ふたたびその男が訪れたとき、互いの会話はとても自然な風のように絡みあった。最初に会ったときよりも彼の容姿が煌(きら)めいて見えた。艶やかな髪、甘い瞳、蜜色の唇、何よりも整い過ぎた顔、それに完璧な肉体を想わせる引き締まった胴体。女の警戒感はゆらぎ、少しずつ男に魅了されていった。
女は使うあてもなく、そのスーツケースを買うことにした。
「入りたいと思ったらいつでもご連絡ください。あなたを入れたケースを運べるなんて、とても素敵なことです」と男はにっこりと笑った。
「いったい、どこに運んでくれるのかしら」と女が言うと、彼は、あなたのお望みのところへと言って、澄んだ瞳から微かな光を洩らした。
三度目に女のところへやってきた彼は、注文した真新しいスーツケースを運んできた。包装が解かれたケースは、彼が営業用で持ち歩いていたものとは違って、とても深い色あいに輝き、美しかった。
「あなたがこのスーツケースの中に入ったら、あなたはとても素敵な自分を想い描けるような気がします」と、男はあたりまえのように、あたかも《それが事実》であったように言った。
「ええ、いつかあなたが私をスーツケースに入れて運び去り、あなたの中に監禁された自分を描いてみたいわ」と女は笑った。
男はスーツケースを開いて見せた。ケースの中の甘い匂いが女の肌を撫で、まるで彼女をケースの中に誘惑しているような気がした。女と男の心が深いところで絡み合い、スーツケースの中に女が封じ込められるという架空の想像は現実のように彼女の心をなごませた。


二十年前の記憶が不意によぎっていく。朝はすでに始まりかけているのに、女は昨夜からずっと眠れなかった。
黎明の静寂がいつものように女の体を物憂い色彩へと濃くしていく。何が濃くなっているのかわからないが五十歳になったときからそう感じている。もしかしたら部屋の隅に置いてある、あのとき買った葡萄色のスーツケースが彼女を吸い込み、心と肉体を癒すように濃くしているのかもしれないと、ふと思った。
自分が眠りにつく場所はベッドではなく、目の前のスーツケースの中かもしれない……両腕と両脚を人形のように折りたたまれ、ケースの中に封じられ、誰にも知られることなくあの男に運ばれ、知らない場所で彼の手によって監禁されたら、女は安心して深い眠りにつくことができるような気がした。

スーツケースを売る男は、あのとき以来、女のところにやって来ることはなかった。あの頃、彼に会えないことで、何とも言えない酷薄な孤独と寂しさをいだき、男の会社に電話をしたことがある。彼はすでに会社を辞めていた。女は、その男が《自殺したらしいこと》を別の営業マンから聞いた。でも、ほんとうに彼が死んだのかは定かでなかった。彼が死んだと思うと、女は《彼の不在と同時に自分の不在》をひしひしと感じた。なぜならスーツケースに自分を入れる男はこの世からいなくなったのだから。
それ以来、スーツケースがいつのまにか色褪せ、女に、彼女自身の不在を暗黙のうちに伝えているような気がした。ケースの中は男がいなくなったときからずっと空(カラ)だった。男がケースで女を運び去る以外にそのスーツケースが使いようのないものであることに女は気づいていた。


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