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銀の羊の数え歌
【純愛 恋愛小説】

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銀の羊の数え歌−13−-3

振り返った先には、小さく手をあげた畑野さんが立っていた。今日の彼女はいつもの白衣姿ではなく、襟の広がったベージュのワイシャツに、色落ちしてほとんど白に近くなったジーンズという、ラフないでたちだった。
「ちょうどよかったわ。私も今きたところなの。一緒にいきましょう」
と、畑野さんは言った。
下駄箱に靴を入れ、スリッパにはきかえると、僕は頷きながら彼女の隣りに並んだ。
「僕もほっとしてます。柊さんの病室がどこなのか分からなかったから、一人だと絶対に迷子になってましたよ」
「あら、私、言わなかった?」
「言ってません」
すぐそばのエレベーターで三階へのぼり、そこから、真っすぐ前へ伸びた廊下を進む。 こうして、歩きながら視線を巡らせていくと、ここは普通の病院とは違うんだな、とあらためて思う。喫煙所で煙を吹かしたり、時々廊下ですれ違う障害者は皆、おそろいの病衣などではなく私服だったし、そこらに絶えず流れている空気はどこか重苦しく、肩にずっしりとのしかかってくるようだ。
突き当たりを右に折れてから、すぐに畑野さんが足を止めた。
「ここよ。柊さんの病室」
三一三号室とかかれた札の下には、三人の患者名が書かれていて、柊由良の名前もそこにあった。あけっぱなしのドアから、部屋の中をそっと覗いてみる。用意された六つのベッドのうち、廊下側の二つには向かい合うように知らない顔が並んでいて、一番奥の右手に柊由良の姿を見つけた。
ベッドの枕元をあげた状態で、偶然こっちを見ていた彼女は、僕らに気づくなり完璧な笑顔を作って、両手で大きく手を振った。本当にどこか悪いのかと疑いたくなるほど、えらいはしゃぎようだ。
さっそく病室へ入ると、一個しかなかった椅子は畑野さんに譲って、僕は立ったまま、後ろの壁に寄りかかることにした。
「久しぶりねぇ、柊さん。ちゃんといい子にしてた?」
と畑野さんが優しい口調で言った。
柊由良は嬉しそうに、うん、と一つ頷いた。 僕と会っていなかった数日間のうちに切ったのだろう。背中まであった彼女の髪の毛は、以前より随分と短くなっていた。
何げないふりをよそおって、白い布団のうえに置かれた両腕に視線を向ける。
そこから見る分には、新しい傷は見当たらない。よかった。どうやら自傷行為も少なくなったらしい。
僕は仲のいい姉妹のような二人のやり取りに耳を傾けながら、肩越しにある窓へ目をやった。転落防止のためにつけられたこの鉄格子だって、一般の病院じゃ見られないものだ。
そっと手をかけて、顔を近づける。その間から、中庭を見下ろすことが出来た。
太陽の光を弾く青々とした芝生に、灰色の道が血管みたいに何本も枝分かれして伸びている。所々に置かれているベンチのほとんどには、腰掛けた誰かの姿があった。
雲一つないこの天気だ。さぞかし気持ちもいいだろう。 と、不意に背中をたたかれた。
振り返ると、はにかむような柊由良の顔が真っすぐに僕を見上げていた。
「藍斗センセと会うのも、久しぶりだね」
と歯切れのいい口調で彼女は言った。
僕は腕組みをしながら、そうだね、と答えた。久々に顔を合わせたせいか、なんだかとても照れ臭い感じがする。
「柊さんも元気そうでよかったよ。君が倒れた時はめちゃくちゃびっくりしたんだから」 「そうよ」
と、横から畑野さんが付け加える。
「あんなことになったら本当に大変なんだから、柊さんも、もう絶対に勝手に外へ出ていっちゃだめよ。ね?」
柊由良はすねた子供のように口元を尖らせると、はぁい、と小さく返事を返した。
病室を後にしたのは、それから一時間ほど経ってからだった。僕らが帰ると分かるなり、柊由良はほんの少しだけ駄々をこねた。そこはなんとか畑野さんが説得してくれたのだが、出ていく僕らに向かって渋々手を振っていた、柊由良のあの寂しそうな顔はちょっと忘れられそうにない。
「今日は本当にありがとね。助かったわ」
エレベーターのボタンを押しながら、畑野さんは言った。僕は、いえ、と首を振った。
「僕も楽しかったです。それに彼女も元気そうでよかった。あれじゃあ、どこが悪くて入院しているのか分かりませんよ」
心底安堵した顔をしてみせると、畑野さんは肩を揺らしてクスクス笑った。


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