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薄氷
【SM 官能小説】

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薄氷-9

ファミレスに現われたあの女はいつものようにあなたと微妙な距離をとって隣の席に座った。恋人同士でも、愛人でもなく、ただ、《意味のないセックスを交わしただけの関係》は、もしかしたら妻との過去の生活に似ていたのかもしれないとあなたはふと思った。
ふたりのあいだに奇妙な空気が漂う。その日、薄く化粧をした女はいつものあどけない表情と違ってとても大人びていた。着ている黒いワンピースも、上品なハイヒールも、身につけているアクセサリーも特に飾り気があるというわけではなかったが、彼女が身につけているものの何かが、あなたに意味を与えているような気がした。そして彼女から漂ってくる匂いは、やはり妻と同じ香りのする香水の匂いだったのだから。
あなたは昨夜、久しぶりに妻のクロゼットの扉を開いたことを思い出す。妻の香水の匂いが今もまだどこかに漂っているような気がした。クロゼットの中にはタイトでセクシーな黒革のミニワンピース一着と箱に入れられた黒いハイヒールだけが残っていた。ヒールの先端と爪先はゴールドメタルで造られた特徴的なハイヒールだった。
なぜ、妻がこれだけを持ち去ることを忘れたのか、あるいは故意に残していったのかは今でもわからない。ただ、あなたはこのワンピースとハイヒールを妻が身につけた姿の記憶がなかった。いったいどこに出かけるときに妻がこれらのものを身に纏ったのか。でも黒いワンピースとハイヒールは、《妻のクロゼットの中に確かに残され、確かに妻が使っていたもの》に違いなかった。

「何を考えているのかしら」と女の声がした。
「きみは、近くにいるのに遠いところにいるような気がする……」と、あなたはひとり言のように女に向ってそう言った。
彼女はあなたの方を振り向きながら言った。「そうかもしれないわ。わたしも同じことを考えていたような気がするわ」
深夜の閉店時間近くの店には誰もいなかった。微妙な距離をとって並んで座り、それなりに歳の離れたふたりが会話を交わす姿をいつもの中年のウエイトレスは不思議に思ったかもしれない。
「わたしたちって、抱き合っていたのにお互いに別の場所にいるような気がしたわ」と言った女は、隣にいるあなたが抱かれた男だという気配を微塵も見せなかった。
それは妻と同じだった。セックスを交わした翌日、妻はまるであなたという存在を自分の肉体から消し去るように装っていた。いや、装っていたというより、あなたとの交わりが架空のものであるかのように《その痕跡》を拒んでいたのかもしれないとさえ思うことがあった。
「それは、ぼくときみが心と体を何かしら病んでいるということなんだろうか。病んでいる部分は、ぼくたちが考えているよりもっと深いところにあって、それが何なのかわからないってことか………」
「そうかもしれないわ。あなたもわたしも、《お互いのこと》なんて何も考えないままに抱き合った。そして心と肉体の隔たりについて病んだままセックスを交わした……」
 あなたは、どうやって彼女の服を脱がせたのかさえ思い浮かばなかった。彼女のワンピースの背中のジッパーをおろし、衣服を脱がせ、おそらく下着が足指からすり抜けるまで、まるで彼女の皮を剥ぐような指の感覚はすべて消し去られていた。それは妻に対する《すべての記憶と感覚》が欠けていたことと同じだった。
「きみは、別れられない男のことを考え、ぼくは離婚した妻のことを考えていた……」
「そうね……お互いにもう考える必要もない相手のことを」と彼女は言った。
「でも、ぼくたちは抱き合えた……」
 彼女はあどけなさを微かに滲ませた薄い唇をキュッと結び、むずかし気な顔をしてしばらく考え込んでいた。
「人には、表の顔と裏の顔があるように性愛にも表と裏があるわ」と、彼女は急にまじめな顔をしてそう言った。
「きみは、そうなのか」と言うと彼女は小さく頷いた。
「わたしたちって逃れられない人がいるから、性愛をもっと深く感じようとするのかしら」
 彼は返す言葉を持ち合わせていなかった。
おそらく……と言いかけながら、咽喉につかえた言葉を自ら誘い出すように彼女は言った。
「あなたは、わたしを抱いているあいだ、あなたの奥さんをどんなふうに、どんなやり方で、彼女の何を愛していたのか、雲をつかむように記憶の底を探っていたわ。でも、それはわたしも同じなの。離れられない男のことについて同じことを考えていたと思うの」
 彼女は自分が別れた男が、あなたの妻を抱いていることをもしかしたら知っているのかもしれないとあなたはふと思った。
でも、どうして、この女はあの男のものであり続けようとするのか。あの男はこの女を捨て、妻という別の女を抱いているというのに。まるであなたは、あの男と目の前の女の軌跡をたどるように彼女の顔を見つめ続けた。


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