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薄氷
【SM 官能小説】

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薄氷-17

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冬が終わろうとするその日、あなたはいつものファミレスにいた。男と最後に会ってから三か月がたとうとしていた。
あなたは《記憶の中の、いつもの時間、いつもの席》にいた。ただ、何があなたの記憶であり、いつがあなたの時間であり、どこがあなたの場所なのかわからなかった。確かなことは、あなたがここで、この時間、誰かを待っているということだった。
珈琲カップを冷えた掌で包み、唇で啜る。誰かがいつもの席に現われるような気がした。でもあなたにはその人物が誰なのかはわからない。
そのときいつもの中年のウエイトレスが、客が立ち去った隣の席に残されたカップを片付けながらテーブルをふき始めた。
不意にあなたは彼女に尋ねた。
「ぼくは、いったい誰とここで会っていたのか、あなたは覚えていますか」
 突然、声をかけられたウエイトレスは、あなたの方を振り向くと怪訝な顔をして眉間に深い皺を寄せた。
「多分、石膏色をした男か、もしくはコスプレの姿をした若い女性だったと思いますが」と、あなたは自分の中の《確かな記憶》にもとづいて言ったつもりだった。でもウエイトレスから返ってきた言葉はそうではなかった。
「お客様は、黒革のワンピースとハイヒールを履いた四十歳くらいの女性と、いつもここでいつも待ち合わせをされていましたよ。女性の方の黒いハイヒールの踵と爪先がゴールドメタルの特徴的なものでしたからよく覚えています。多分、お客様が言われるような男性の方や若い女性の方とお客様がここでご一緒されたことはないと思います」
 あなたは自分の耳を疑った。
「いや………確かにぼくはここで、サングラスをかけた男と若い女と……」とあなたが言いかけたとき、ウエイトレスは客が溜まっているレジの方を気にしながら言った。
「わたくしはお客様がここに来られるときはいつも店に出ていますから、記憶にまちがいはございません。以前もお見かけしましたし、つい先週も、お客様はその女性の方とこの時間に、この席にいらしたではありませんか」
 ウエイトレスが忙しそうにレジの方に小走りに立ち去ったあと、あなたは茫然と椅子に身を沈めた。
 何がどうなっているのかわからなかった。サングラスをかけた石膏色の男、ベッドで抱いた若いあの女、男が語っていた妻らしきK…子という女、そして《あなたが、この時間、この席で会っていたという女》………あなたの記憶の中の複数の像が螺旋(らせん)状に渦を巻き、ねじれていく。
 あなたは家に戻ると妻のクロゼットを開いてみる。そこにあるはずの妻が残したワンピースもハイヒールも消えていた。いつのまになくなったのか、あなたは気がつかなかった。茫然とそこに立ちつくした。まわりの空気が薄くなり、胸を強く締めつけた。それはまちがいなく《妻がいなくなった喪失感》に違いなかった。

深々と夜が更けていく。悶々とした幻影があなたの中をよぎり、一睡もできなかった。現実と夢が交錯し、記憶が水に溶けた水彩絵具のように薄らいでいく。あなたはもがいていた。妻に対する飢えと渇きがしだいに増幅を始める。
妻の声がどこかで聞こえたような気がした………跪いてわたしの足先にキスをするのよ。そうすればあなたが記憶を失った瞬間が甦るわ。
ベッドの中のあなたの身体のいたるところに妻の声が響きわたり、どこからとなく微熱がまどろむ。ペニスが小刻みに痙攣を始める。そして記憶を覆っていた薄氷に音もなく無数のひびが入り、粉々に砕け、飛び散り、鋭く尖った破片がペニスに突き刺さる。次の瞬間、下着の中で肉幹がしなり、烈しく伸び上がると白濁液が飛び散った……。

――― そのときあなたは、自分が《初めて妻の不在に向かって射精したこと》を感じた………。


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