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薄氷
【SM 官能小説】

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薄氷-10

 ホテルの部屋の窓に貼りついた薄氷に無数のヒビが入り、風景は奇妙にゆがんでいた。
あなたがこの女に初めて接吻したところは足指だった。あなたの舌が一本一本の女の足指のあいだを這い、込み上げる唾液がまぶされた。女の足指を愛撫しながらも女の肉体のすべてが感じられることが不思議だった。顔も、唇も、胸の膨らみも、腰のくびれも、尻肌のなめらかさも、そして鬱蒼とした漆黒の草むらに潜んだ性器まで。
女を抱いているとき、あなたはふと思った。自分はこんな風に妻の体に触れたことがあっただろうか……きわめて性的に、執拗に、尽きることのない時間をかけて。妻と別れてからというもの誰ひとりとして女を抱いていないあなたの身体の中に、ある種の性的な触覚のようなものが生え、自分の体の粘膜を破って少しずつ息づき始めているような気がした。
何かがあなたの肉体の奥深いところから込み上げ、堅くなった体の中心を突き上げてきた。重く、冷たい汗が背中に流れたとき、あなたは、《自分の中にありもしない狂暴さ》を夢見て女を犯したいと思った。おそらくあの男が妻にいだいている感情と同じように。そして何よりもあの頃、飢えと欲望と、狂暴さがあなたに欠落していることを妻が烈しくなじったことの記憶に胸を締めつけられていた。

ベッドが軋む音が微かに漂っている。女の首筋や鎖骨の窪みの滑らかさ、腋窩と乳房の谷間に溜められた翳り、乳輪や乳首の色あい、下腹の肉肌のざわめき、太腿の透きとおった白さ、形のいい膝やふくらはぎのゆるやかな輪郭、細く締まった足首と踝(くるぶし)、その先に映(は)える清らかな足指と爪……それらのすべてがあなたの中に精緻に刻まれていた。
女は眼を開けているのか、閉じているのかさえ分からない。ただ、秘められた意識の底を夢遊病者のようにさまよっているのか、それとも疲れているのか。肌理の細かい陶器のような白い肌には微妙な窪みと隆起が滑らかな線を描いていた。 尻の割れ目の細い溝、流れるような背中の翳り、彼女を抱き寄せたとき触れた乳房の弾けるような肉肌、貝殻骨の小さなへそ、煙るように淡い繊毛……あなたの指が彼女のすべての湿り気を含んでいた。でも、あなたの指には、やはり《妻の肉体の記憶》はなかった。どうしても思い出せなかった。
淡い光が女の肉体を蕩けるようにまぶし、あなたの手を、指を、唇を、数々の行為へと白日夢のようにみちびいていく。あなたはあらためて女の肉体の隅々まで触れ、爪を掻き立て、唇を這わせた。
あからさまに健康的な、あなたの記憶のどこにもない、青く、甘酸っぱい彼女の肌があなたの指と唇を撥ねるように押し返す感触と甘い匂いにめまいを覚えながらも、あなたは久しく忘れていた欲望が急激に高まってくるのを感じていた。もしかしたら妻をこんな風に抱いた懐かしい記憶が、自分の中のどこかにあるのかもしれないと、あなたはふと思った。そしてあなたは、女の白い胸のふくらみに荒々しく爪を喰い込ませ、記憶の中にある混沌(カオス)を孕んだ肉の中心で暴力的に彼女を犯した。

ふと気がついたとき、部屋の澱んだ空気の流れが止まり、すべての音が消し去られていた。
ベッドの中で抱き合ったふたりのからだが急激に醒めていくのが感じられた。女は頬をあなたの胸に押しつけた。女の胸にあなたの爪の痕が痛々しく残っていた。
「あなたは、わたしをこんなふうに抱こうとは思っていなかったような気がするわ」女は小さなため息をつくように言った。
こんなふうに……という言葉がまるで妻の声のように聞こえてきた。女とふたりでいる部屋から性愛の匂いが消え、からっぽの何もない、おそらく《何の関係のない男女》の空虚な息づかいだけが微かに蠢いているような気がした。
気がついていた。女が自分で言わなくても。白い腿の内側にうっすらと残っている小さな点のような痣。
「見たでしょう、わたしのからだに刻まれたものを。やつがわたしに煙草の火を押しつけた痕だわ」
彼女は、男のことを奴(やつ)と呼んだ。
 痣は薄蒼く、色素を失っているのに、なぜか女の軀の奥に潜んでいる濃い情感を漂わせているような気がした。おそらく、あの男の行為を彼女が拒むのではなく、むしろ男から与えられる苦痛を彼女の方から自ら望んだようにさえ思えてきた。
「やつは変態なのよ。ほら、女の人を縛って鞭とか、蝋燭とか、いやらしい器具を使っていじめるって、あれよ。それがやつの愛し方……」
光沢のある肌のひろがりのどこからか湧きあがる女の嗚咽にあなたは吸い込まれる。蛇が薄肌を這うような黒い縄の絡み、どこからか振りおろされる鞭がはじける音、したたる熱蝋の雫の先から聞こえる喘ぎ声。ふと気がつくと、女の肉体から無機質な音だけが耳鳴りのように響いていた。
「そんなことをされても、きみはその男を愛していたのか」
女は微かに頷きながら言った。「わたしにはやつに必要とされたい女であり続けたいの」
「そう言いながらも、こうしてきみはぼくに抱かれている……」
「やつ以外の男性に抱かれるのは、あなたが初めてだわ」
あなたもまた妻と別れてから、妻以外の女を抱いたのは初めてだった。どうしてそうであったのか、自分でも理解できなかった。



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